ダリエン国立公園(3)

 

 ダリエンの旅 その2

 

面積60万ヘクタールもある国立公園である。

一回行っただけでこれがダリエンだ、と語り尽くせるものではない。いろんな顔を持っている。

ピレに行った後、再びダリエンに行く機会を得た。

今度は、ハーピーイーグル(おうぎわし)を見に行くことが目的である。

たまたま知り合いになった、日本人のHさんという方が、もうすぐ日本に帰るということで、どこか行きたいといっておられたのを思い出して電話をした。

   「いきたい! いきましょう!」

ということで話が弾んだ。

 行く先は、水鳥で有名な プンタ パティーニョ という突き出た半島からモゲー川をさかのぼったところにあるエンベラ族の村 『モゲー部落』 である。

正確には、ここはダリエン国立公園の中ではない。かなり州都 ラ パルマ に近い。

もちろん、何の治安的に物騒なところではない。

 

ダリエンの州都 ラ パルマ は、一言で言えば、きたない。 

以前、モラレス氏と来た時、最後の日に市長も交えて2時間ほどのセミナーを行った。

どうすれば、ダリエンに日本人観光客を連れてこれるか、というかなり深刻な大きな課題のセミナーだったが。

 とにかくわたしがその時言ったことは、

  「みなさん、 ごみを海へそのまま捨てるのはやめましょう。」

ということだった。

 岸壁から海へごみをバケツごと捨てるので、遠くからなにかカラフルなものが川のように垂れ下がっているな、と見えたのが、実はみんなが捨てるごみの山だったのだ。 

貧しい光景は、それはそれでもいい。

もし、そこにごみが散らかっていなく、家の軒先にブーゲンビリアの花の一鉢でも軒並みにそろえて飾ってあれば、パナマの太陽と青空とで何とか様になってしまう。

しかし、ボート乗り場のいたるところに食べカスのチキンの骨とスイカの皮とソーダのプラスチックボトル、アルミ缶、そしてビニールの袋がへばりついているのを見るのはなんとも不快感がする。

『日本人を呼ぶのは10年早いんじゃない。』

という言葉がそこまででかかった。

やはり、はじめて ラ パルマ についたHさんも同じような印象を覚えたようだ。

先回は陸路で悪戦苦闘しながら1日がかりであったが、今回はパナマ市から小型飛行機で1時間でラ パルマに到着した。

 

f:id:shuasai1207:20190618144915p:plain ペドロと私


そこから、ボートでモゲー川をさかのぼる。

ガイドのペドロは、我々と自分の分の食料品とテントを担いでいる。

水もそこでは飲めないので、ミネラル ウオーターのボトル、そして水を濾して飲むフィルター器までもってきている。

彼は、わたしの仕事上のよきパートナーである。

アメリカ人で、ネリーというかわいいパナマ人の女性に恋をして結婚した。

もともと、登山家でパナマアメリカ軍の兵隊たちのジャングル訓練のインストラクターをしていた。

アメリカ軍が引き上げると、彼は残ってツアーコーディネート、兼 ガイドを始めた。

パナマのいたるところ知り尽くしている頼もしい男性である。

もっとも、愛妻ネリーのおかげでこのところ太り気味であることをかなり気にしている。

  ボートは、いったん海のほうへ出るような気配を見せ、半島をぐるっと半周するようにしてモゲー川に入っていく。 

マングローブが生い茂りなかなかの景色である。

乾期であったため思ったより川の水位がなく、予定地点より、かなり手前でボートから降りることとなった。

かなり歩いてあごを出す少し手前ほどでモゲー部落についた。

かなり広い敷地に思い思いに家が点在している。

全体的にごみもなく、こざっぱりとして割と気持ちがよかった。

500世帯ほどの集落で、真ん中へんには小学校があった。

すべて高床式のハットハウスである。

ここのエンベラ族は、チャグレスの奥地のエンベラ族とは違い赤フンに太鼓の歓迎などなかった。ごくごく普通の部落の生活をしていた。

男性たちは、Tシャツにズボン姿だし、女性たちも、Tシャツとミニタイト巻きスカートをはいていた。

子供たちはどこも同じ光景、はだかで走り回っていた。

f:id:shuasai1207:20190618145422p:plain モゲーのエンベラ族と部落


農耕を主としているようで、考えてみれば、観光客などめったにこないのだからTシャツ姿が仕事には都合がいいに決まっている。

外国からはるばる来たとしたら、また外国人としたら、やはりエンベラには正当な衣装、

はだかで赤フン、顔中いれずみ、でいてほしいと思うのだが。

それはいまどき難しい要求なのかもしれない。

 ペドロはそこに自分でかれらと同じ高床式のハットハウスを作ってしまっていた。

地上3メートルはある、かなり高く、床は15畳はゆうにある家である。

そこに2つのテントを組み立て、早々とねた。

満天の星空でダリエンで見る星空は最高である。

Hさんと、しばし、星空を見上げて、 「この星を見にここまできただけでも、来た甲斐があったわ。」

などと話し合った。

よく朝早く、ハーピーイーグルの巣のある場所へエンベラのガイドの案内で森のなかへ出かけた。部落から歩くこと約1時間、そんなに遠くはない。

 この鳥が巣を作る 太くて高い『ボンゴ セイバの木』のふもと近くの足場のいいところに立ち、みあげると、なるほど二股に分かれた高い幹に巣があり、1羽の幼鳥が 

「ピーッピーッ」 「ピーッ ピーッ」

と甲高く鳴いていた。

おなかがすいて、親鳥を呼んでいるのだ。

しばらくすると、

「バサッ バサッ」

というかなり強烈な音が、あたりの静けさを破った。

「えっ、どうしたの!なにがあったの!」

と思わず聞きただしたほどであった。

おおきな、立派な、威厳に満ちた親鳥が巣に舞い降りた。

そしてくわえてきた餌を雛に与え始めた。

私たちは呆然とこの光景に見入った。

かれこれ2時間はそこにいてジーッと様子を見ていたと思う。

 

f:id:shuasai1207:20190618150325p:plain Hさんとガイド

ハーピーイーグルは、みるからに威厳のある鳥である。

黒と白でかなりおおきい。雛は生まれてすぐは白色をで、次第に灰色になる。

パナマの国鳥であり、世界でも動物園も含めて100羽しか生存していないと聞いた。

やわらかな頭の毛は、風になびいて冠のように立つ。

テリトリーがはっきりしているこの鳥は、周囲4キロメートル四方には他のハーピーイーグルはいない。

そしてヒナが育つ3年ほど同じ巣にいておやどりは餌を運び、巣立ったら2度度と同じところには帰ってこない。

この鳥の価値が世に知られるまで、政府は野放し状態で保護にあたらなかった。

インディオたちはこの鳥を矢で仕留め、羽を勇者の飾りにした。

おかげで絶滅に瀕している。

今知られている知識では、この鳥はつがいになると生涯パートナーを変えない。つまり人間で言うなら一夫一婦制である。しかもその上、パートナーの一方が死ぬともう一方も生きておれなくなり死んでしまうという。そうなると雛も育たない。

 だからもし、1羽を殺すということは、パートナーも殺すことになり、子供も殺すことになる。3羽が一度に死んでしまうことになるのである。

なんということ。

ハーピーイーグルを保護することの必要性を改めて認識したのである。

 

私とHさんは、この日おやどりと幼鳥を一度に長時間見ることが出来た、たいへん、たいへん幸運な者であった。

めったにこんな光景は見られるものではない。

本格派バーダーが聞いたらさぞかしうらやましがることであろうが、Hさんもわたしも鳥には素人なので、 

「よかった、よかった。」

で終わってしまった。

しかし、その感動は素人とはいえだれにもひけをとるものではないが。

 2日目の夜、早々とテントを張り寝支度にかかっていた私たちに、急にペドロがテントをたたんで、今からそこを出発すると言い出した。

満潮がその日は夜の12時で、それに乗って川を渡らないと、次の夜まで船が出ないということだった。

 村は見て回ったし、ハーピーイーグルも見たし、パナマの町が恋しくなった。

あと1日だってここに閉じ込められるのはごめんだ。

大急ぎでテントをかたずけ、夜の道をボートの待つ場所へと走った。

夜中12時、懐中電灯の明かりだけで、ラ パルマ に向かった。

月がこうこうと海辺をてらし、我々のボートのモーターの音だけが月明かりの中周囲に響きわたり、幻想的な雰囲気でこれもまた忘れられない印象となった。

 ラ パルマ についた私たちは、とにかく宿をたたき起こし、ベットにもぐりこみ、

翌朝10時発のパナマ行きの小型飛行機に乗ったのである。

 その後、この親子鳥はまもなく巣立っていったと聞いた。

我々が、あそこで見た最後の目撃者となった。

ハーピーイーグルの親を呼ぶ鳴き声、

ヒナのために餌をくわえて戻ってきた姿、

餌をついばんでいる様子。

いつまでも、脳裏に焼きついて忘れたことはない。

わたしの貴重な貴重な思い出の宝物となった。

 ありがとう、ハーピーイーグル。