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ダリエン国立公園(3)
ダリエン視察旅行に妻が同行しました。彼女の視点から紀行文が描かれています。私が知らない裏話などもあり、それが旅行に深みが増しているのではないでしょうか。
ダリエンの旅 その1
パナマ観光局 IPATの モラレス氏との出会いは、カノピータワーのオーナー、 ラウル氏の紹介であった。
彼は自然保護と観光の共存、エコツーリズムの発展を如何に進めるかというようななにやらむつかしい仕事をしているそうである。
大学は、旧ソ連邦、モスクワに留学したという。
1980年代、まだソ連が勢力が強かったころ、中米などの頭がいいが貧しくて大学へいけない人たちがたくさん旧ソ連邦に留学した。
彼もその一人である。
ソ連の戦略の一つで、留学時代にばっちり共産主義思想を叩き込み、自国に帰し、いざというときのプロパガンダにしようというもくろみであったようだ。
その戦略はあまり成功しなかったようだ。
というのも、モラレスはIPAT(パナマ観光庁)で働く傍ら、自らも教会を持ち悩める人々を神へと導くプリースト(牧師)でもあるからだ。
向学心と思想は必ずも一致しないということを、かれの例を通してわたしは感じた。
あごひげをたくわえ、人懐っこい目で迎えてくれた。
『パナマを知りたい。』
という私たちの申し出に、よろこんで自らダリエンを案内することを約束した。
ただし、IPAT(パナマ観光庁)は予算がないので最も安い方法で行くということであった。
どんな方法なのだろう。もっとも安上がりで行く旅とは。
モラレス氏との打ち合わせ
約束の朝、門の前でかれらを待った。
横に大きくIPAT と書いた45人乗りの古びたバスが我々の前に止まった。
なかからモラレスが早く乗れと合図している。
ダリエンの旅は、わたしの知る限りにおいては主人と私、モラレス、もう一人、ダリエン出身のアレックスの4人だけである。
「バスとは、おおげさな。」
と思ったが、きけば、これしかあいているのがなかったそうである。
普通は、州都 ラ パロマ あるいは、エル レアル まで、飛行機で行く。
私たちはとぼしいパナマ政府の予算の関係で、陸路と水路で行くようである。
インターアメリカーナを東方面、コロンビアの方角へ走る。
チェポの町から先の道は、文字通りの悪路である。
その悪路たるや上下、左右のはげしい、止まることのない振動によりおなかがよじれて胃が痛くなるほどである。
よこを4X4のランドクルーザータイプの車が、これみよがしに走り去る。
4人を乗せた45人乗りのアメリカの払い下げ、スクールバスは、あえぎながら深いわだちを悪戦苦闘している。
ゆっくり、ゆっくり、プエルト キンバまで行く。
プエルト キンバから国境警備軍隊のボートで行くのだそうだ。
別に治安が悪くて危険だからではない。
なんというか、政府高官たちの間でのやり取りでそうなったようだった。
予算をかけず、つまり 『ただ』 でかれらのボートに便乗するのだ。
乗せてもらうわたしからしたら、こんなチャンスはめったにない。
映画で見るようなダークグリーンの兵隊服を着て、ライフル銃を肩に掛けて見るからに頼もしそうなパナマの兵隊さんたちと、敵地上陸に使うようなアルミ色をした実用一辺倒のがんじょうなボートに乗り込んだ。
ダリエンの州都 ラ パルマ まで約1時間、兵隊さんに見守られ、ガソリンの樽の合間に身を沈めながらの、ツイラ川を行くボートの旅はよかった。
川幅は広く、雄大で、周囲はマングローブで覆われ、いかにもスケールの大きなダリエンのジャングルを思わせる。
ラ パルマ に到着したのがすでに夕方である。
飛行機で1時間でこれるところ、我々は1日を要してしまったのである。
第1日にしてかなり疲れてしまったが、それでも普通の観光客では味わえない珍しいたびに満足であった。
ラパルマ市警察署の前で兵隊と
第2日目、早朝の出発というのに、かなり手間取った。
ここが地元のアレックスは、久しぶりの里帰りなのか、道行く人が全部、親戚か、縁者のようで、3分行っては立ち止まり、8分立ち話をし、また3分行っては5分立ち話をし、なかなか目的地のパルマ警察署に着かないのである。
やっと警察署について、モラレスがIPATの威光をかざし半分脅迫的な協力交渉に赴いた。
はじめは我々が今日行く、ピレ レインジャー ステーション まで、ヘリコプターを出してくれるよう依頼した。
警察署長は
「うーん」
とうなった。
ヘリとは大きく出たものだ。
しかし、どう見ても、我々日本人はただのひとである。日本大使館関係者にも見えないし、日本のVIPにも見えないし。
ヘリまで出してやる価値があるようには思えない。
モラレスは、すかさず、
「では、この遠来の日本人に何をしてあげられるのか。」
と切り込んだ。
署長はまたもや
「うーん」
とうなって、1人の日本人につき、2人の警護兵をつけてやることを約束した。
夫婦2人に4人のライフル、カービン銃をつけ、完全武装した兵隊さんがつくことになった。
ふたたびわれわれは、例の海兵隊のようなアルミ色のボートに4人の無口な兵隊とともに乗り込んだ。
いざ出発というときになって、またもやアレックスが次の桟橋で自分のばあさんと、じいさんと、いとこと、はとこと、大叔母さんと、大叔父さんが待っているからぜひ寄ってくれ、と言った。
気持ちのやさしいモラレスは、
「彼は故郷に帰るのは3年ぶりだからね。しかたがない。ちょっとだけ寄ってやろう。」
と我々に同意を求めるような、独り言のようなことをぶつぶつ言いながら、ボートは出たかと思ったらすぐまた次で岸に寄せた。
桟橋には、都会に出て行った村の青年を一目見ようと、じいさん、ばあさんばかりでない。
村中の人が詰め掛けていた。
アレックスはこの村から出て出世した英雄だった。
ほんのちょっとのはずが、もみくちゃにされ、記念写真をとり、我々は長いこと待たされて、やっとボートは岸を本格的に離れることとなった。
海兵隊アルミ色をしたボートはスピードもあり、快適だった。
ツイラ川は、次第に川幅を狭くしていった。
昼頃、エル レアルの町に到着する。
この町には滑走路があり、飛行機がラ パルマからここに立ち寄り、人を拾ってパナマを往復している。エンベラ族と、パナマ人の農民とが混合して住んでいる。
エル レアルが事実上のダリエンの森へ入る拠点でもあるので、観光客や、学者など結構多くの人がこの町に立ち寄る。
ひなびたレストランで、警備の兵隊さん達と一緒に昼食をとり、米とか、日本風に言うならば、味噌、しょうゆといった類のものを調達した。レインジャーステーションには食べ物は何もないのである。
ここからピレ川という支流に入っていく。
だんだん上流に行くに従ってところどころ、ボートの底が川底についてしまうことが起こり始めた。川が浅いのである。
そんなときは兵隊さんたちの出番である。
かれらは、黒い編み上げの革靴のままじゃぶじゃぶと川に入っていく。
そしてボートを押してくれた。
ツイラ川で国境警備隊と
3人が、ボートを押していると、上役クラスの兵隊は必ず、川の向こう側に行って銃を構え、ジャングルをにらんでいる。
いわゆる、これは、よく映画である援護というやつだろうか、と気がついた。 戦場で、建物から次の建物に移るとき、一人が少し離れたところにいて、援護射撃をして仲間が移り終えるのを見守る、というあれである。
なんとなくここがベトナムのジャングルで、ベトコンが今にも飛び出してきそうな錯覚を覚えてしまう。
映画では見たが、実際こうやってボートの援護をする兵隊の姿を見て、
「うーん。 さすが国境警備隊。 訓練されてるなー。」
いよいよボートではもういけないという上流まで行き、陸に上がった。ここまでで午後2時ぐらいになっていた。
そこから先は徒歩で山を登る。
途中、インディオの農家で、鶏を2羽買い、兵隊が首をひねり、腰にぶら下げた。
今夜の我々の食料である。
ここまでくると私の感覚も相当原始へ戻ってきている。
ちょっとやそっとのことでは驚かない。
ひたすら、薄暗い森を、ピレ レインジャー ステーションへ向かって歩いた。
ピレ は面積60万ヘクタールという広大なダリエン国立公園の中にある。
ここは、ユネスコ世界遺産指定地域であり、唯一、ハーピーイーグルがじっくり観察できるところであり、昼でもうすぐらい熱帯ジャングルの真っ只中、マカウ(コンゴウインコ)が飛び交う原生の森である。
ここにくると、パナマ市内近くにあるソベラニアのジャングルも、まして、メトロポリタンの森も、目でないという気がした。
森の深さが違う。
木が違う。
樹齢何千年という大木がそのままにある。直径3、40センチはある太いつたが大木の木から木へと絡み付いて垂れ下がっている。そこらじゅうに巨大なセイボの木、クイボの木がある。長さ4、50センチもあるミミズに出くわした。
ちょっと圧倒されてしまった。圧巻である。
この森がアマゾンのような大陸の奥地にあるのではない。太平洋、大西洋の両大洋に挟まれた地形的にはわずかな陸地にこれだけの原生林があるというのは、学問的にも大変貴重なのだ、とあるものしり博士が言っていた。
歩いて 歩いて、しかもかなり山道を登った。
途中、モラレス氏の生物に関する講義を聞きながらであったこともあり、かなり時間がかかってしまった。とうとう真っ暗になり、懐中電灯の明かりのみを頼りに、そのころになると疲れたのと一寸先の闇の道の恐怖も手伝い、ただ黙々と歩いた。
兵隊さん達はもう何度もこの道を歩いているらしく、真っ暗でも平気である。
7時は当に過ぎて、ピレ レインジャー ステーションに着いた。ここは、いわゆる山小屋で、ANAN(パナマ政府自然環境保護)の詰め所でもあり、一帯をそこの職員、といっても、インディオの夫婦が番をしていた。
火をおこし、腰にぶら下げていた鶏の羽をむしり、米とで料理を作り始めた。
ろうそくの光で黙々と食べ、ランプもなく、焚き火を消したら墨を溶かしたような闇の世界となった。
夜中、途中トイレで起きたが暗い森に星が空いっぱい輝いていた。
翌朝、ぎゃーぎゃーというコンゴウインコの独特の鳴き声に目を覚ます。
主人たちは、滝を見に行き、わたしは、山小屋でハンモックに揺られて過ごした。
後日、TBS が『世界遺産』という番組でここにきた。
ヘリコプターから見下ろす滝は、深い森の中にマッチして大スペクタクルな風景を展開してくれた。
ダリエンは人に甘い顔をしてくれない。だからこそ苦労しても来るに値する内容のある森だ、と実感した。
簡単な昼食を済ませて帰路についた。
帰りは、変な日本人の護衛をおおせつかった荷もおりたのか、兵隊さんたちも打ち解けて写真をとったり、お菓子をつまんだり、のんびりした旅となった。