ボケテ地域(4)

   

2006年、私と妻はフィンカ・レリーダのロッジを訪れました。その時の様子を、ロッジのオーナーのジョン・コリン氏の印象を中心に、妻も紀行文を記載しました。

 

          『フィンカ・レディーダ』

           ジョン・コリン氏を偲んで

 

 フィンカ・レディーダコーヒー農園を訪れたのは二〇〇六年春だった。

 そこは、『とこしえの春の花園』と呼ばれているボケテの町を見下ろす丘陵地帯にあった。

標高約千五百M、三六〇ヘクタールの土地の約四分の一がコーヒー農園、あとは原生林。そこにオーナーのジョン・コリン氏がロッジを建てた。

早速プロモーションを兼ねての視察に行き、その後三回、個人的に訪問した。二〇〇七年にかけてのことである。

 赤や青の北欧風の三角屋根の家々があるボケテの町を通り抜け、丘の中腹にしゃれた看板が掛っていた。入り口から正面、車寄せまでの長いアプローチのロードに、大きなジャカランダの樹が、薄紫色の花をつけていた。スペイン語ではハカランダと発音する。樹の傍にジョンの邸宅があった。緑の三角屋根に木造のがっしりとした造りが薄紫の花とマッチして、ヨーロッパの山麓の田舎に来たような感じがした。

f:id:shuasai1207:20191031130113j:plain事務所とジャカランダの木

到着すると、ジョンと奥様があたたかく迎えてくれた。レディーダ農園の設立は一九一七年と古く、彼で三代目だという。早速ロッジを案内、レストラン兼ラウンジでコーヒーを入れてくれた。おいしかった。こんな美味しいコーヒーを飲むのは、ケツァーレスロッジの森の中のキャビンで飲んで以来だ、といっても過言ではない。香りは何ともフルーティ。味は柑橘類に似た酸味が程よく、自然の甘みがそこに溶け合っている。一口含んで、(わぁ~、美味しいコーヒー)、まるで脳細胞が生き返るかのように、活力を取り戻した。

それを見ていた満足げな彼の顔をあれから1〇年以上たった今でも思い出す。

フィンカ・レディーダコーヒーは、パナマスペシャルティコーヒー協会が主催する、国際コーヒー品評会で三年連続金賞、第一位を取っている。二〇〇一年には、ベスト オブ パナマに輝いた。筋金入りのコーヒー栽培スペシャリストだった。日本的にいえば匠の職人だ。私は世界トップクラスのコーヒーを飲んだのだ。(しかも無料で!)

 彼は熱く、ゲイシャ・コーヒーのことも話してくれた。今でこそ名が知られているが、当時は、というか私は、無知だった。素人の私たちに根気よく教えてくれた。もともとはエチオピアのゲシャ村で栽培された豆で、いつの間にかゲシャがゲイシャになったこととか、大変な手間がかかることとか、なによりゲイシャ・コーヒーは世界で最も高級なコーヒーであることとか。最後に、

 「明日、アメリカ、シアトルのバイヤーが来る。ここの農園でできたコーヒーのテイスティングをやるから、一緒に参加したらいい。ゲイシャ・コーヒーも‥、特別にね」

 といってくれた。

 試飲室へ入る。いつの間に来たのだろう、女性を含め四,五名がいた。毎年コリン氏のコーヒーを買い付けているのだそうだ。今年の出来具合は…?

まず、農園の中のそれぞれ違う場所で獲れた豆の出来を見る。それから挽いた粉を入れたカップを両手で覆い、鼻先に近づけてにおいを嗅いだ。それから湯を注ぐ。鼻をつけて香りをかぎ、さらにスプーンでかき混ぜて、においを嗅ぐ。次は味である。スプーンで表面を少しだけすくい、音を立ててズズズーっと一気に口に含む。少し口の中で味わい、飲み込む。口の中に残る味を確かめる。バイヤーたちは神妙な儀式のように行っている。静寂があたりを包む。バイヤーたちは、それぞれの豆の違いが判るのだ。

f:id:shuasai1207:20191031130429j:plainバイヤーのコーヒー試飲会

私も真似をして嗅いでみたり、すすってみたり、微妙な違いが分かるような、わからないような……、何とも情けない。

最後にゲイシャ・コーヒーを出してくれた。おそるおそる口に含む。そうだった、まず香りをかがないと、などプロたちを前にしてドギマギしてしまう。何しろ世界で一番高価なコーヒーを私は手にしているのだ。ドル札が頭の中を駆け回り、どうも邪心に阻まれ集中できない。

柑橘類のような程よい酸味、ジャスミンのような芳醇な香り、口に広がるはちみつのような甘味、―これらの表現は、ネットで調べて言葉を編んだー

ともかく上品なコーヒーだ。これを味わうことができた私は幸せ者だ。

 バイヤーたちがどう評価し、いくらで買い付けたのか、そんなことは知らないがきっと良かったに違いない。

昼食後、農園とコーヒー工場を見せてくれた。

 コーヒーの木には、赤く熟したかわいらしい豆がついていた。無農薬栽培で、手摘みで収穫する。作業は先住民族グアイミーが出来高賃金で出稼ぎに来る。収穫時は相当額儲けるそうだ。

f:id:shuasai1207:20191031130741j:plainグァイミー族の親子

農園をハイランド・レインフォレスト(熱帯雲霧林)の原生林が取り囲んで、防風林の役目を果たしている。ジョンのところも四分の一だけ農園で残りは自然のまま、そこにトレイルを作っている。四,五〇メートルの巨木も多い。アグアカテの木が百本以上ある。ということはその木の実を好む、あの美しい幻の鳥、ケツァールが生息しているということである。最後の日、このトレイルを野鳥観察にガイドと出かけた。もちろん、ケツァールを見ることができた。ほかにも多くの鳥を観察できた。まさに日本風にいうならば、人と自然が共存する里山である。

ジョンは、ボケテでコーヒー栽培が始まったいきさつや、この農園についても話してくれた。

 発端はパナマ運河建設である。運河はフランス人レセップスが最初に手掛けた。その時多くの技師や労働者が仏、欧州から入植した。一九一〇年頃である。運河の建設地域は北緯八度、海抜ゼロの熱帯だ。暑さ、重労働、劣悪の衛生状態などで、熱さになれないヨーロッパ人たちがこの高原地帯へ避暑した。そしてコーヒー農園を始めた。気温、夜と昼の寒暖の差、適度な湿り気などの条件がコーヒー栽培に適していたからだ。フィンカ・レディーダの設立者もノルウェーからきた運河建設の技師だった。暑さを避けてボケテにきてこの土地を買った。

やがてボケテは、これらの入植者たちの勤勉な努力により、良質のコーヒーを生産し、デンマーク王室のご用達。欧州へ輸出するようになった。運河建設はレセップスの挫折撤退後、アメリカが引き継ぎ完成した。ノルウェー人の創設者の死後、コーヒー農園をジョンが買い取り、引き継いだ。ジョンはアメリカ人である。まるで運河建設の経過と同じだ。

f:id:shuasai1207:20191031130913j:plainオーナーのジョン・コリン氏

家には、創設者が残した運河建設当時の設計図などが大切に残っている。家や工場の一部は九十年前のまま修理しながら今も使っている。ジョンはノルウェー風の家屋を博物館にして、そこに九十年前のままの書物、設計図などを保存しておきたい、といっていた。

居心地の良いフィンカ・レディーダを幾度か訪れ、仕事でたまったストレスを癒し雑念を振り落とした。

日本に帰国した後、パナマからの便りでジョン・コリン氏が急死したことを知った。口ひげを蓄え、物静かな紳士だった彼の風貌を今でも思い出す。ゲイシャ コーヒーは私にとって幻の鳥ケツァールと同じ。もう一度ロッジのラウンジでジャカランタの花を見、すそ野に広がるコーヒー畑をながめてみたい。そしてジョンが淹れてくれたコーヒーを味わってみたい。そんな贅沢なひと時は、もう二度とやってこない。

 

ジョンの死後、奥様があの農園もロッジも手放した、と聞いた。