以下の文はスミソニアン研究所の一研究員がクナ族の居住する地域で環境教育のために活動した体験記録です。スミソニアン研究所はパナマ運河のために造ったガツン湖の真ん中にあるバロ・コロラド島に設置されています。世界各国から科学者が集まって、熱帯の生物を研究しており、熱帯で唯一の世界的な熱帯生物多様性研究所です。

 

クナヤラの環境教育体験

 

スミソニアン熱帯研究所は、1970年代初めから1990年の終わりまで約20年間、パナマカリブ海沿岸のサンブラスといわれている地域に住む先住民族、クナヤラの共同体の中に研究所の施設を作り、環境教育のプログラムの参加も含め、クナ部落との共同作業を行うことができた。

クナ先住民族は、サンブラス岬からコロンビア国境のオバルディア港まで長さ220キロメートル、面積3200平方キロメートル、中には約300の群島も含めた細長く広大な地域を所有している。

パナマ国家の法律によると、共同体の自然的境界は、サンブラス山脈の頂上で太平洋と大西洋の間の分水嶺である。

1983年、クナ共同体はこの西側6万ヘクタールを包含した地域で、PEMASKY(クナヤラ野生地域を取り扱う研究プロジェクト)と知られている保護プロジェクトを組織し、スミソニアン研究所は、動物、植物の目録作り、取り扱い計画づくり、環境教育のサブプログラム作り、などを援助し、さらに、タパーセンターの設備、図書館、その他のサービスの使用を無料で提供した。

以下では、1983年から1995年までのクナ地域での環境教育の豊富な体験を記載している。

スミソニアン研究所の環境教育の最初の活動は、クナ共同体のPEMASKYと一緒に始まった。プロジェクトのグループはカルティ地域に集まり、クナ共同体へ向かった。

その後、6ヵ月おきに組織するクナ一般議会にも参加した。彼らは、サンブラス山脈を越えて森林資源を破壊し、太平洋側の斜面に居住しているパナマ人の開拓農民の侵入にブレーキをかける緊急なる必要性と環境の保護の重要性を提議した。プロジェクト以前に、クナ共同体はクナ区域の境界線に印をつけなければならないということに気づいていなかった。そこでまず、クナ族の所有する土地であることを知らせ、境界を打ち立てながら境界線に印をつけ、道を切り開いていくボランティアグループを各部落から組織することから始めた。

f:id:shuasai1207:20210311160845j:plainクナ族の子供の絵(14歳)

初年度、研究所はクナヤラの動物、植物、先住民族の権利、保護の問題に取り組んだ雑誌サピ・ガルダを出版した。そして研究員の一人、アンディ・ヤングによって「クナヤラの精神」という映画を作り、ポスターのシリーズを出版した。この映画はビデオの形で英語、スペイン語に翻訳され、多くの人がPEMASKYプロジェクトの趣旨に賛同し、国内、国際的にも推進キャンペーンの中で数多く上映された。

その後、数年をかけてヌサガンディ地域の自然保護教育に力を注いだ。ヌサガンディ地域は、パン・アメリカン高速道路のコロンビア寄りにあるパナマ州とクナの境に位置している。ヌサガンディは、環境教育のPEMASKYプロジェクトの次の重要な拠点となった。

周囲に様々な道を作った。もっとも重要な道はイナイガル道(薬草の道)であった。島から一人の植物学者がしっかりした土を持ってきた。彼は伝統的な薬草の中で有用性のものを登録しながら、数週間にかけて植物や樹木を識別した。この植物学者による膨大な資料を1998年、パナマ大学が『イナイガル道の案内文書』として公表した。

PEMASKYプロジェクトはクナ共同体に伝統的情報を返し、再利用することが含まれているので、正式に環境教育を行うことについて話していたことを書き留めることは価値があった。クナの老人たちは、自然環境を尊敬して、土地に思いやりのある生活や農業の実践をすることの大切さを知っていた。プロジェクトの技術者たちは、若いクナたちが昔から引き継がれてきたこの教訓の大切さをしっかりと学んでほしいと願っていた。

加えて、この地域での科学的調査によって得た情報を返さなければならないと考えていた。さらに、いかに情報を再利用し、その後伝達するか。いかに先住民族の伝統的情報を西洋の科学と噛み合わせるか。新しい活動家はこの挑戦を成し遂げるために努力するであろう。

1989年から1990年まで、二人のPEMASKYの森林技術者はカンガンディのクナ族の中で狩猟の実態を研究した。

カンガンディ部落はカルティ湾のモリヤの入り江から一時間半歩いたカンガンディの縁の辺りのしっかりした土地に位置している。この調査は、一つの部落が山から狩猟する肉の必要量を知り、クナ族が他の農作業などの労働とかみ合わせながら、いつ、どこで、どのように動物を狩猟するかを学ぶことであった。この研究は狩猟のレンズを通して、クナ文化に対する視線のようなものであった。

f:id:shuasai1207:20210311162447j:plain訳読本「母なる大地と息子」

調査を始める時に、カンガンディの部落の会議場で、調査で学んだものをクナ族に返すことを決定した。その後、二人のクナの教師が地方の学校で始めた環境教育の仕事の成果を調査に加えた。彼らは、学校の子供たちに伝えるために、地域の動物や植物の小グループについて、手に入れた知識や調査のために取っていた写真を利用していた。田園の調査を終えて、学校教育の子供の訳読本のようなものである色刷りの本を通して、情報の成果を集大成した。それは研究の子供版のようなもので、動物がクナ部落の文化や生活に必要であることを説明しながら、クナヤラの15種類の野生動物を含んでいる。一人の画家が教科書のイラストを描き、多くのクナの人々が変更や提案をしながら、下書きを見直した。一人のクナによって収集され、第一酋長の序文が載せられた。「母なる大地の私たちと息子たち」という題字が書かれ、私たちは、これをカラー刷りの本と呼んだ。これらは、教育省とスミソニアン研究所共同の最初の学校生徒向けの出版物であった。現在のところ、クナ共同体とパナマ国内で、スペイン語で2回、ワシントンとEUスペイン語と英語で1回、コスタリカ海賊版を出版した。そして著者の名誉のため、タラマンカ山脈の中にあるブリブリ族のためにも作った。

f:id:shuasai1207:20210311163114j:plainカルティスドゥップ部落の子供

パナマで図書館に本を分配する前に、教科書の解釈をより具体化する意図で、子供たちが描写し、表現するために、本の中に2枚の白紙も含めた。スミソニアン研究所の教育事務所と州の教育省によって実現したデッサンと作文の最初のコンクールで、子供たちは活気を込めて実績を発表した。共同体の間で、彼らは並外れた芸術的才能があったであろうと予測していた。そして、それは間違いなかった。8つの共同体は、共同体の中で最も美しいものを一つずつと、250のデッサンと教科書を受け取った。

この活動の結果に熱狂されて、中央アメリカの野生生物の世界基金の責任者が、クナヤラの子供芸術の最初のアトリエを設置するために小さな種基金を申請した。1993年、ダリエンの組織の一人が、アリガンディの野生の島に芸術アトリエを前進させた。後に、それが他の島カルティ・スドゥップに移動し、同じ年に、クナ芸術家の最初の会議も組織された。1995年に、カナダ・パナマ基金(公益プロジェクトと共同したパナマにあるカナダ大使館の機関)は、ハマディヤラ、アクアヌサドゥップ、ウクプセニ、カルティスドゥップの地方共同体と一緒に子供芸術のアトリエのネットを組み立てた。ネットを拡大するため、その目標を記載し、定義する必要があったので、目標は次のように具体化した。一つは、共同体の中や外部が、子供たちや、彼らの生活状況や、子供たちの可能性に対して、子供たちに関心を持たせるために、子供たちに優秀性の自信を与えることである。二つ目は、手芸品の表現から人間的絆の原則までを文化として理解させながら、伝統的文化の価値の認識を子供たちに与えることである。三つ目は、自然の正しい使用を、その時々、社会に参画し、主張できるようにするために、自然生態系を高く評価できるように教え込むことである。

f:id:shuasai1207:20210311162747j:plain子供芸術フェスティバルのポスター

当時から、一人の若いクナの主唱者はアトリエごとに、子供たちにデッサンや壁画、詩、劇、ダンス、歌などを教え、共有しながら、一緒に仕事をしていた。1995年から1999年まで、ネットワークはクナの子供芸術のフェスティバルを毎年行い、祝ってきた。この子供たちの錬金術、芸術、文化、環境教育が発展し、有益であるように試みた。私たちの成功や失敗を通して、アトリエのネットワークでよい種をまき、たぶん、国の他の共同体のため、良い見本として役立つことを信じている。

1991-1992年(アメリカ大陸発見と文化との出会いの500年祭の年)アトリエの仕事と並行した形で、クナの学生に向けられた生態学についての本の作業に勤しんでいた。この記念祭や、土地とクナの関係、クナヤラの将来の状態について持っていた見解などのコメントを、クナの男性、女性20人から集め、それを本に含めることを決定した。最初に、クナの中学生のために考えられた本「自分の羽で飛んだ」から、「土の魂」、「クナ部落の生きた動物と植物」(クナ生活での植物と動物という題名での英語版、1995年)で完結した。その中で、伝統的で大衆的な知識と、クナヤラについて生み出された技術の情報を合わせることに成功した。クナの3人の男性と一人の女性によってなされた価値ある4つの体験と、野生動物と薬草の豊富なイラストも含まれている。この本はクナ部落の理解と知識のための有用なものであった。そして、今や、それは海外の大学の研究として用いられていると同様に、クナヤラの共同体にも読まれている。

f:id:shuasai1207:20210311163754j:plainデッサン「カヌーを引く男たち」

この本の制作の間ずっと、たくさんの特別な体験を得た。私たちの目標は原則としてクナの人たちに読まれることであった(第二は情報をクナに返すこと)ので、土基金のおかげで、スペインのバロセロナのイカリア出版社と満足するような出版の合意に達した。出版は1500冊から構成されていた。そのうち1000冊は販売のためスペインで、500冊はパナマで、クナの集会場に無料配布されていた。

共同体の保護と境界を設定する必要性を話しながら、クナヤラの島々を旅し、環境教育の普及を始めた時から今日まで、クナに情報を返すために、多くの出版物を出版した。これらの出版物について話しする中で、母なる大地や部族のために行うことのできた光栄を覚え、長い仕事であったが、楽しく、非常に創造的なものであったことを実感した。

パナマ先住民族は先進国やパナマ国内でも見られない自然を破壊しない生産方法を独自に編み出し、それを実践しています。現在、そのやり方が先進国でも注目されており、南米の国々でもそれを学び、実践しつつあります。以下は、パナマの研究員がその実態を現地に行って取材し、編集したものです。

自然保護地域でのパナマのクナ民族の持続的可能プロジェクト

 1970年代、パナマダリエン州で、パン・アメリカン・ハイウェイの建設が始まることによって、そこに住んでいるクナ族に影響を与え始めた。チュクナケ川に沿って広がっていたクナ族たちが住む数十の部落があるワルガンディ自治区は広大で肥沃な熱帯雨林の中にあった。

パン・アメリカン・ハイウエイはアメリカ合衆国アラスカから中米、南米を南北に一本の線として通す壮大な道路建設構想のことである。

木材業者が入り込み、次々と木が伐採されていった。最初、クナ族はお金欲しさにパナマ環境省(ANAM)を仲介として、木材業者が伐採した木材をクナ族に払い下げる契約を結び、クナ族も労働者として伐採の仕事をした。しかし、気が付いてみると生活を営んでいたワルガンディ自治区の肥沃な森林までも切り崩され、しかもダリエン州以外からのパナマ人開拓民が次々と入植してきた。農業者から始まり最後には牧畜業者が入り、道路から何十キロ四方の熱帯雨林が消失してしまった。

f:id:shuasai1207:20201206174709j:plain危機に瀕しているクナ部落

森林の中で生活しているクナ族にとって、森林の消失は生存できなくなることを意味した。まず、チュクナケ川の水量が乾期に激しく減少し、生活のための木材、医薬品として採取していた薬草がなくなり、狩猟や漁獲もできなくなった。さらにクナ族の若者たちが、パナマ人の生活様式に感化されて、従来の農業を捨て材木商などに雇われ、労働者に変わっていった。伝統的なアグロフォレストリー(森林を利用しての農業)や生活文化、薬草の知識が失われるのも時間の問題だ。

環境破壊に直面したワルガンディ自治区の指導者たちは、自然を守り、クナ共同体の発展のために創設されたNGO団体「ドボ・ヤラ」に援助を求めた。急務とするのは、パナマ国内からの開拓民や農業者、牧畜業者の侵入を防ぐことである。1993年以来、「ドボ・ヤラ」と一緒に、自然資源、とりわけ、森林を守るためのあらゆる方法を模索することを始めた。ここに、ワルガンディ自治区の持続可能プロジェクトが始まった。さらに「ドボ・ヤラ」の他、海外のNGO団体からの支援も受けるようになった。活動の目標はクナ族の住んでいる地域の合法化、環境教育、経済的援助の確立の三つであった。

地域の合法化の推進の結果、2000年、パナマ政府との交渉により、正式にワルガンディ地域が自治区となり、合法的に議会を通しての決定権が成立した。これによりクナ族以外はこの地域への個人的な土地所有は禁止された。

議会は規範として、クナ族文化を守り維持すること、経済的発展をすること、自然資源を持続可能にする、等を定めた。

森林や自然環境の荒廃を最小にするために、伝統的な知識と、その中に近代的実践を取り入れ、それらが、薄れ去ろうとする今日のクナ族やこれからの子孫に文化として根付かなければならない。そこで、先祖から口承によって伝えられてきたクナ族の伝統を知り尽くすクナの男女たちを選び、「ドボ・ヤラ」と一緒に自然の生態や環境等について話を聞き、それを録画し、記録に残すという仕事を始めた。

植物の生命や用語、植物と人間との関係性、鳥類の行動、クナ族が古来から信じる人間の起源、母なる大地の創造と進化、宇宙のバランスなどについてである。その結果、「ドボ・ヤラ」をはじめ、各支援団体たちは、クナ族が創造の基台となっている森林についての広大な、豊富な知識を持っていることが分かった。

 f:id:shuasai1207:20201206175607j:plainソソ椰子が茂るジャングル

経済的代案や農業生産の目的は、ワルガンディ自治区の経済的自立と自然資源の持続的使用を促進することである。3年間の計画を立て、プロジェクトの活動を実践した。その結果、経済自立に成功した一つがコーヒー生産であった。クナ族共同体による販売委員会を設立した。市場と販売ルートの確保に努めた。また、NGO団体から農業技師を要請して、その技師の指導の下、コーヒー栽培には良い条件とは言えない熱帯雨林でも、より品質の良いコーヒー栽培方法を習得した。

ワルガンディ自治区に住むクナ族の持続可能な生産において重要な点は、森林の中で利用できる植物を守ることである。クナにとって、森林はスーパーマーケットでもあり、薬局でもあり、ホームセンターでもある。住居やカヌーを作り、織物を作るための繊維であり、台所や洗濯のための家庭用品の材料、また、宗教儀式のための酒、楽器の材料や、薬草の宝庫である。クナの文化を存続させるための植物、特に有用な植物とそれらに関連した知識を守ることは不可欠である。先進諸国の文化に感化されたクナ族の意識の変化や、人口の流動、外圧(パナマ市などの)などから、植物の伝統的利用法を保存するため、どうすべきかが重要な課題であった。

f:id:shuasai1207:20201206180101j:plain収穫し、乾しているコーヒー豆

1998年、クナとNGO団体「ドボ・ヤラ」の持続可能な発展に必要な要求は、ワルガンディ自治区のクナ議会によって採択された。早速プロジェクトを立ち上げ、カナダのマクギル大学と共同して調査を行うに至った。さらに、この研究はカナダにある中央国際開発調査団体の寄付によって実現された。

まず、絶滅危惧種の中から有用植物を識別し、基本的な生態系の研究、またクナ族古来からの伝統的手法で行う収穫方法や収穫後の使用に関して知ることであった。

調査はワルガンディ自治区のナウラ部落で始まった。5つの項目で重要な23の種類の植物を選んだ。その5つとは、建築、家庭用品、繊維、薪、食用植物である。

23種類の植物の利用方法等についての情報を得るため、森林やその植物の知識をよく知るクナ族の男女に聞き取り、記録した。クナ族男女からの貴重な情報は、これら23種類の基礎的生態についての研究に大変役に立った。

また部落の周囲3500ヘクタールの地域の生態計画も作成し、植物観察技術の資格を持つ2名のクナ族の青年と生物学者サラ・ダジェ女史と共に作業した。

その作業とは、地域の異なる地点に300以上の区画を設定し、一区画ごとに、植物や森林の状態やそこに住むクナたちの生活の様子を記録した。一区画ごとの道や地域の境界の正確な地図を作製するという地道な活動である。まだ、研究されたすべての種類の分析は完成していないが、徐々に植物とクナの生活の関連性が明らかになってきた。

 

f:id:shuasai1207:20201207163902j:plainソソ椰子の葉で葺いた屋根

その一つの例は、住居の建築に最も重要な、『ソスカ』という厚みのある葉を持っている『ソソ椰子』で、他の地域では『グアガラ』と言われている。原生林では典型的な椰子である。成木は高さ15メートルになり、厚い葉は大きく、クナの伝統的家の屋根を葺くためにもちいられ、丈夫で長持ちする。ワルガンディでは、屋根を作るために使う唯一の椰子である。男性たちは、幹の到達が早いので、まだ、幹が成長しているときに、若い椰子の木の葉を切る。一家族の家の屋根をふくのに1000枚の葉が、集会場には15000枚の葉が必要である。集会場では、部落の活動を組織したり、社会的問題や文化、意見の一致などについて討議する。これらの集会は、各共同体の最高の権威である酋長によって統制される。酋長は、最近、10~15年間でソソ椰子が減少してきて心配だ、といった。

ソソ椰子については、この地域における椰子の分布地図を作製、よりよく成長するために必要な光、水、土の条件を調べ、豊富な椰子を人間が採取してしまう影響を評価するなどのデータを集めることである。

今までのところ、ソソ椰子は環境に豊富な多様性を与えるが、生育には石灰岩の沈殿物の混じる土壌ではよく育たないということが分かってきた。

また、ソソ椰子の繁殖地は、マホガニーが成長するのと同じ場所にあり、同時に成長させることができる。マホガニーは用材として大量に植林し、生産し、機械で一気に業者が伐採する木の代表である。

クナ族の伝統的農業であるアグロフォレストリーのシステムでは、一つの種類だけを植林するのではなく、他の種の樹木や植物、薬草など多様性をもって区画の中に生育させる。そうすることによって持続可能な生育が可能となるのである。そのために、各種の生息地や再生に適する場所を選定する研究がさらに重要である。

f:id:shuasai1207:20201207164144j:plain呪術の儀式にも使われるココボロの彫刻

ワルガンディ自治区NGO団体「ドボ・ヤラ」の共同プロジェクトの結果、23種の保存すべき植物の貴重な調査が終了した。

その中で、特に伝統的文化を引き継ぐ代表的な植物として挙げられるのが、クナ族が儀式として使う杖を彫刻したココボロ、カナスタと呼ばれるかごを編むための繊維を作る植物のチュンガ、木の実を根付のように彫刻するためのタグア、儀式の染料として使われるジャグアである。また、建築に使われるマホガニー、家屋の屋根を葺くために必要なソスカ(ソソ椰子)などである。

          先住民族 エンベラ・ウンナン

 パナマ先住民族の代表として、クナ族と並ぶエンベラ・ウンナン族を紹介します。

 

f:id:shuasai1207:20200706171050j:plainエンベラ族の女性

 エンベラ族はコロンビア西部のチョコ地域に住んでいたチョコ族の分派です。チョコ族の源流はアマゾン川流域です。エンベラ族にウンナン族も一緒に住んでいますが、言語が違うことで分けられます。1700年代にコロンビアからパナマダリエン州に移住し始めたと記載されていますが、口承では16世紀、スペイン入植時にはすでに移住していたようです。そこにすでに住んでいたクナ族と争い、敗れたクナ族のほとんどは今のサンブラス州のカリブ海沿岸や、サンブラス諸島に追いやられました。それ以来、ダリエン州には一部のクナ族、エンベラ・ウンナン族が地域を分けて住んでいます。と同時にもう一つのグループがダリエン州に入り込んできました。それがスペイン入植時に労働力としてアフリカから連れてこられた黒人奴隷です。その一部がダリエンに逃亡して住み着きました。黒人逃亡民は川の河口に町を造り、クナ族は森に住み、エンベラ族は川に沿って暮らしています。エンベラ族にとって、川は魚取り、水浴、輸送、日常生活に重要な役割を担っていました。

f:id:shuasai1207:20200511164207j:plainエンベラ部族のハットハウス

 ところで、1950~60年代になって、キリスト教の宣教師の影響と当時のトリホス・パナマ大統領の介入で共同体を作って住むように勧められました。先住民族パナマ社会に編入、統合するためでした。共同体に学校や医療施設を造るということで拍車がかかりました。次第に、エンベラ族は川に沿った共同体を形成するようになりました。歴史的には、彼らは平等社会で首長を中心とした組織はありませんでした。ある宗教的信念を持ち、薬草や幻覚作用の知識を持っている呪術師である酋長が悪霊を払いのけたり、治療したりしていました。

やがて、共同体としての自治権を持つようになり、首長を中心とする政治的組織であるエンベラ、ウンナン共同体議会を設立します。酋長を各共同体の代表とし、その地方長官を共同体の年次議会の代表として選出しました。その先住民族自治区の設立を認めるかどうかをめぐって、パナマ政府は討議を始めました。ついに、1983年パナマ国会はダリエン州にある二つの地域をエンベラ、ウンナン自治区として承認しました。自治区の設立はエンベラ族にパナマの農民たちによる侵略、侵入から土地を守るために、土地の合法的所有の権利を与えたことになりました。指定された自治区はサンブー川とチュクナケ川に沿った二つの地域に割り当てられています。しかしながら、1979年のダリエンのハイウェイ建設以来、パナマ各地からの開拓農民がダリエンに続々と入り込み、貴重な森林を伐採し農地化し、さらに牧場へと変えていきました。それとともに、エンベラ族共同体が近代社会にアクセスできるようになると、川の流域から、パナマ人が造った町へ、あるいはパナマ市の近くの湖の側に住むようになりました。生活も川を中心とした漁業や狩猟から焼き畑農業へと変化しました。

f:id:shuasai1207:20200706172250j:plainエンベラ族の集まり

文化

  エンベラ族は川辺に住んでいる民族です。川によって生活が成り立っています。彼らの文化の中心は川です。また川には欠かせないカヌーは、彼らの伝統であり、宇宙観を表しています。伝統的にエンベラ族は、死者をカヌーに寝かせ埋葬します。カヌーを作る技術は重要なものです。良く作ることが男性にとって結婚できる大切な条件となっています。彼らはハットハウス(帽子の家)と呼ばれる、高さ3~4メートルの高床式住居に住んでいます。野生動物や洪水から家族や食物を守るためです。湿気の多いジャングルで少しでも風通しをよくするために壁はありません。屋根は椰子の葉で葺いています。床はヤシの木の皮の細長い一片を並べて敷いています。家は丸形で大家族を養うに十分な広さを持ち、台所は部屋の一つの隅に、泥でかまどを作り火を燃やします。家に登るための階段は丸太を階段状に削って使っています。家の周りに薬草を植えたり、食べられる野菜を植えます。高い家の床下には豚や鶏を飼っています。

f:id:shuasai1207:20200511170325j:plain高床式の家でくつろぐ

 近代になって、中米はキリスト教の宣教師の進出により、彼らの伝統的衣装、薬草による治療、ダンス、音楽、宗教儀式などが変化させられていきました。中米の国の多くの先住民族は半ば強制的にスペイン風に変えられましたが、パナマ政府は先住民族の文化、風俗習慣を変えさせることはしなかったため、伝統を守り続けてきました。エンベラ族の女性は上半身裸で、ヤシの繊維で作られたスカートをはいています。様々な色で、複雑に入り組んだ模様のビーズとコインのネックレスで胸を飾っています。頬や唇はアチオテの実から抽出した赤い色を塗ります。男性は腰布だけをまとっています。男性も女性もジャグアの実から抽出された染料で体全体を黒っぽい青色で覆い、この色はいつまでも消えず、儀式のときに用いられます。そして、顔の半分も唇から背後にかけてラインで塗られます。ダンスは公共的集会や儀式のときに行われます。踊りは動物の動きからインスピレーションを得ていると言われています。

f:id:shuasai1207:20200706172811j:plain手芸品カナスタ

 エンベラ族はクナ族と同じようにとても芸術性に富んだ民族です。特に三つの代表的な芸術品があります。

一つはカナスタという、ヤシの木のチュンガの皮の繊維から、水も漏らさないように編まれた籠です。繊維は乾燥され、木から抽出された染料で、赤、黄色、緑、青、赤紫色などで染められます。模様は伝統的な幾何学的模様や動物、作者の創作が表されています。世界で最も美しい芸術品と評価されています。

二つ目はタグアという椰子の木の実に彫り付けた彫刻品です。タグアは16世紀中頃からダリエン、コロンビアで彫られ、生活用品に用いられていました。タグアは5センチ四方ぐらいの大きさで、非常に硬く、木の象牙と呼ばれています。タグア彫刻は彼らの伝統文化に根差しています。呪術のための宗教的道具としても彫られてきました。主に、鳥や動物などをかたどって彫られますが、その細密さは、芸術家の間で高く評価されています。例えば、アリが葉を運んでいる姿は足の一本一本まで正確に彫られていて、その精密さに感動させられます。近年、観光客が増えるにつれ、タグア彫刻は男らしい職業として発展してきました。タグア椰子は以前はダリエン地域全体に繁茂していましたが、農民や牧場業者の侵入や道路建設による森林伐採によって低地ではほとんど見られなくなってしまいました。

f:id:shuasai1207:20200708143655j:plainタグワ彫刻

三つ目はココボロの木の芸術です。ココボロは非常に硬く、耐久性があるので、一世紀以上前から用材は輸出品となっていました。また極端に硬い性質は彫刻や楽器の器材や家具など作るのに役立ちました。ココボロの木は赤、茶色、バラ色、黒と色々な色を持っています。木に土や灰、おがくずを混ぜて、沸騰させて茶色、黄色、チョコレート色、黒色を作り、カナスタの染料にします。タグアと同じようにココボロ彫刻は完全に男性の仕事です。伝統的に、エンベラ族はステッキを掘り出し、それを呪術師が治療のために用いていました。ステッキはいろいろな顔や人形の姿をしており、北米先住民族のトーテムポールを思い出させます。

彼らは日雇い労働や、農業のプラタナ、コメ、トウモロコシなどの収穫ではわずかな利益しか上げることができないので、カナスタ、タグア、ココボロといった手芸美術品は重要な収入源になっています。そして、注目されることは森林を伐採して用材にするのでなく、森林の収穫物から芸術品を作るということです。森林を利用することによって生態系を維持することにつながっていることです。つまり、森林を残すことになっているのです。パナマ政府は彼らの森林から芸術品を生産することを保護の計画の中に含めるようにしました。1981年、ダリエン州のコロンビア国境近くの広大なジャングルがユネスコ世界自然遺産に指定されました。その一部にエンベラ族が居住し、森と共存生活を営んでいます。

 f:id:shuasai1207:20200708143455j:plainココボロ彫刻

 

 

 

 

            先住民族クナ族 

f:id:shuasai1207:20200505170948j:plainクナ族の女性


パナマの国の特色としてまず挙げられる点として、先住民族と平和共存していることだと思います。もちろん長い歴史にはパナマ人と先住民族との熾烈な戦いがありました(詳細は後記)が、結果自治権を獲得し、共栄の道を選び今日に来ています。ここで先住民族7部族の中のクナ族を紹介したいと思います。

                                                     

f:id:shuasai1207:20200504164212j:plainサンブラス諸島

 クナ族は南米コロンビアが発祥の地と言われています。その証拠として6000年前の農耕の跡が発見されています。その後移動しパナマダリエン地域で、約2500年前の陶器や小像、宝飾品などが遺跡から見つかっています。1492年コロンブスの新大陸発見以来、スペイン人がパナマに入植、先住民族・クナ族との激しい戦いが繰り広げられました。1930年パナマ政府とクナ族との和解が成立しました。クナ族だけが住むサンブラス州は特別自治区となり、外国人(パナマ人も含め)の土地や島の所有と居住を許可していません。それによりクナ族の言語、伝統、文化が、外界からの軋轢や侵略から守られる体制ができました。このことは世界史的にも稀有なことです。

 サンブラス州は北はカリブ海に面し、東はコロンビアと接し、西と南は中央山脈に区切られた長さ230Kmの細長い地域です。350余のサンゴ礁の島々が点在し、クナ族のほとんどがサンブラス諸島に住んでいます。その理由の一つとして、大地はジャングルに覆われ蒸し暑く、蚊などによる病原菌からの疾病を避けるためと、島に野生する椰子の実の売買を生活の手段としていたためといわれます。白い砂浜とコバルトブルーの海とヤシの木が生い茂る島々と伝統的衣装をまとったクナの女性たちの写真は、パナマの観光を代表するひとつとなっています。確かにクナ族の生活様式は何千前の原始の生活が現代によみがえったようで、あっと驚かされます。

f:id:shuasai1207:20200504164429j:plain島の中の部落

 各島ごとに数百人から数千人規模のクナ族が住んでいます。一つ一つの島が、独立した共同体で、その中心は酋長と補佐役たちで島の政を取り仕切っています。年に一度は全諸島の酋長たちが集まり会議を行い、共通の決まり事などを取り仕切ります。もちろん彼らの共通の土台はクナ族の言語と風俗習慣、宗教であることには変わりありません。酋長は、賢さや伝統や文化に対する知識の精通した年長者が選ばれます。集会場の中心に酋長と補佐達のためのハンモックが用意され、夜になると島中の人がここに集まります。酋長達はそこに横たわり、ハンモックを揺らしながらパイプの煙をたなびかせ、唄を詠います。そして島の中での家の建築、葬式、耕作などの出来事や問題点などを民主的に解決していきます。唄は単調でありながら深遠で、例えるならば語り部のような役割を果たし、古代からクナ族がもっている宗教観、自然界や宇宙観を伝えたり、クナ族の先祖の歴史を伝えたり、様々な内容を唄を通して子孫へ伝授する役割を持っています。文字のないクナ族は、酋長がパイプの煙をくゆらせながら歌を通して子孫へと伝授されていきます。ハンモックをゆっくりと揺らし奏でることによって次第に霊通し、霊界からの重要なメッセージを島民に伝えているといわれています。集まりの間、男性たちはヤシの繊維からなる籠を編んだり、木片に彫刻をしたり、女性たちはクナに伝わる伝統的な刺繍、モラを縫い、酋長の歌に耳を傾け夜を過ごします。

f:id:shuasai1207:20200504171036j:plainハンモックに横たわる酋長

 クナ族には独自の宗教があり、その教えは歌によって引き継がれてきました。天の父は宇宙を作り、いつも母なる地球を伴っていること。いかに天の父と母が聖なるクナの山にクナ族の先祖を産んだか。天の父と母はクナの生活を守るために霊界のメッセンジャーとして酋長を送ったとか。霊界は地の上と下に4層づつの8つの層からなり、地上の最上階である4番目の層が天の父の住むところで、善良なるクナの霊魂はそこに行きます。彼らにとって霊界は、五感で感じられる物質世界を支え、活気づけていると捉えています。地上での幸不幸、健康病気は、霊界とのバランスによって決まります。もし共同体がそのバランスを崩した時、禍、つまりは自然災害や伝染病が起こります。個人の場合には、その個人に宿る魂が破壊されたり、傷ついたなら、病気や事故が起こります。そのため、酋長は悪霊と接触し、彼らを打ち負かし、治療に努めます。酋長の霊は8層の霊界を駆け回り、病気の世界に入って治療を施します。

 彼らは霊界を強く信じています。霊は祈りや藁の十字架や木の小さな像の形によって呼び覚まされます。霊界には悪霊と善霊の二つのタイプがあり、善霊は木の像で象徴されています。酋長は木の像で、悪霊の頭である悪魔と戦います。酋長とは生まれつき超自然な能力を持っているといわれています。補佐をする祈祷師は、優れた植物の知恵を持ちジャングルの中のあらゆる薬草のありかを知っていて、腐った木や死んだ動物の体、骨、薬草などを粉にして、薬を造ります。酋長達の唄や悪魔祓いの特別な儀式をし、薬草で燻し清め、憑りつかれ病んだクナに薬草を飲ませて禍をもたらす魂を鎮めます。また、唄詠いの補佐は、霊界に話しかける歌を唱い酋長を助け悪霊を取り去る役割を担います。酋長と唄使い、薬草使いは、単なる風邪から伝染病に至る病気まで幅広く対応し、厄払いや治療を施します。災難は共同体全体の出来事とみなされるので、島中が一致して取り組みます。この間、島は他の島との出入りを遮断するので人々は出入りできないようになっています。

f:id:shuasai1207:20200504170724j:plainサトウキビからチチャを作る

 クナ族は母系社会です。家は代々、長女に譲られ引き継がれていきます。男性は気に入った女性の家に入り、数年間、義理の両親のもとで使え、両親に認められて初めて正式に婿として家族の一員になります。結婚の儀式というのはありません。女性は氏族繁栄をもたらす大切な存在です。したがって少女が初潮を迎えたとき、一家は酋長に報告し、「チチャの祭り」という盛大な祝いの祭りを行います。その時、島中の人に食事とチチャというサトウキビから作る酒をふるまいます。これは少女がいつでも婿取りができるという知らせでもあるわけです。

 文字によって伝承することがないクナ族にとって、唄は非常に大切なものです。酋長と唄詠いの補佐による対話を伝統的な歌で唄います。これらの歌は特殊な能力がなければ唄うことができず、長い修行の末、宗教的、文化的なものを代々にわたって引き継がれる儀式でもあります。この儀式は祭りや葬式の時も同じで、また、治癒や悪魔払いの時にも行われます。日常においてもクナの島民は、歌を欠かしません。歌は家を建てる時や、子供の教育の時、魚釣り、籠作り、コメの収穫、モラを縫うときにも歌われます。また、歌とともに伝統的ダンスもつきものです。竹で作った長短の菅を並べた原始的な楽器を吹きながら踊ります。ダンスは彼らの宗教的表現です。自然によって鼓舞され、熱帯雨林の種々の鳥の飛行や動物の動きを再現しています。

f:id:shuasai1207:20200504170400j:plain伝統的なダンス

独特なパッチワーク、モラについて

 クナ族の文化として注目されるのは、世界でも最も美しく、カラフルだといわれている女性の衣装や身につける飾り、体に塗る装飾です。このことは古くから知られていて、16世紀の探検家はクナ族の女性の装飾品や衣装について記述しています。自然の繊維で編んだ、やや長いスカートと、胸を隠すほどの幅広いネックレス、鼻につけた金のリング、そして、体に塗っている、植物繊維から抽出された染料の赤や青、黄色などの鮮やかな色で描き出された幾何学的模様などです。ですから、その時にはすでに、クナの女性は非常な派手な明るさを好んでいたようです。

 最初は上半身裸で、肌に染料を塗って模様を創り出していましたが、衣装を着るようになりました。その衣装は上着として、短い袋のような袖のあるカラフルに織られたブラウスで、その中に刺繍を施された布が前後にあります。それがモラと呼ばれるアップリケで特別な技術を使って縫われています。編んだ布のブラウスに飾りが施されるのは18世紀中頃、フランスのユグノー教徒(キリスト教の一派)がサンブラスに来てクナの女性に、布、糸、針を与え、ブラウスを縫い、上半身を隠すように教えたと言われています。それがパッチワークのモラの手法を編み出した源だと言われています。元来クナの女性たちは様々な模様を体に描いていましたから、モラの中に、彼女たちの独特な色遣い、模様を次々と創り出してきました。いまではパッチワークの一角に座し、世界中にモラの愛好家が居り、それら愛好家にとってサンブラス諸島はモラのメッカ(聖地)となっています。

 その模様は幾何学的なものや、日常生活や自然から鼓舞されたものなどです。ブラウスの下はスカートがあり、腰の周りに巻き付けた、緑や暗い青色などの単純な色で織られたものです。頭には、赤い布に黄色い伝統的模様をつけたスカーフをつけ、前腕と足のふくらはぎにオレンジや黄色、黒の小さな真珠を糸で通し、輪にして何層にしても巻いていきます。それが伝統的な幾何学的模様になっています。足や腕のスタイルがクナの女性の美しさのしるしでもあります。最後のメイクアップは、頬骨にオレンジがかった赤色を塗り、額から鼻にかけて黒い線を引いて、優雅さを高めます。

f:id:shuasai1207:20200504170145j:plainモラを掲げるクナの女性

 モラはアップリケの逆のやり方で縫っていきます。このやり方は世界でもクナ族だけの独自のもので、近年になって世界の芸術家から注目を集めています。色の違った布を34枚重ねて、模様のアウトラインの沿って上の層から切っていきます。切ることによって下の層の色が浮かび上がります。それを何回も繰り返すことで、いろいろな色の模様が出来上がります。一番下の層の色は模様のアウトラインを作り上げます。つまり、その層は色の背景となるので切ることはありません。そして切った所の縁はきれいに縫い込まれていきます。模様は第一に注目するもので、すぐにみんなに理解されなければならないと言われています。それと、模様と色の調和とバランスが必要ということです。同時に、縫い方がいかに細かく、きれいに、丁寧になされているかもその芸術的価値の評価になります。

 クナの女性は6,7歳頃からモラの手法を学び、それがその家に伝わる独自的な模様として代々引き継がれてきました。衣装は生活の必需品とともに、美の競い合いでもありました。昔は商品のやり取りは物々交換でしたが、近年次第に商業主義が入り込むようになりました。交換の基準が紙幣となり、特に欧米からの観光客がモラを買うようになり、クナの女性たちがモラが商売になることを知るようになりました。昔からのモラの模様と共に、市場の要求に合わせるようになって、伝統的な模様から現代的模様に変容してきました。それでも、クナのスペシャリストは現代の流行に合わせながら、伝統的な、創造的な模様を生み出しています。今でもサンブラス諸島のモラは愛好家のメッカとしてすたれることはありません。

 

 

 

        バティスメントス海洋国立公園

 

 バスティメントス海洋国立公園はボカス・デル・トロ群島の中にあります。群島は約70の島から成り立ち、一番大きなコロン島に州都ボカス・デル・トロの町があります。バスティメントス島の周囲はサンゴ礁マングローブ、湿地帯、200種以上の魚などの海洋生態系が一番豊富なため、国立公園に指定されました。ボカス・デル・トロ州は、北はカリブ海、南はタラマンカ山脈が境となり、西はコスタリカに接しています。島々は白い砂浜とコバルトブルーの海、サンゴ礁マングローブに囲まれています。辺境の地なので、観光客は少なく、パナマ人もあまり訪れず、居住している人も少ないため、この地しか見られない野生生物が守られていて、数多く生息しています。大きな湿地帯があり、熱帯雨林が海岸線に沿って長く縦状に連なり、ジャングルと砂浜のコントラストは絶景です。海でのサーフィング、ダイビング、スノーケリングのスポットともなっています。特にバスティメントス島にしか生息していない赤い体に黒い斑点、体半分ずつ青と赤のヤドクガエルも見ることができます。

 1502年、コロンブスが最後の航海でボカス・デル・トロ群島を訪れた時、あまりの美しさにずっとたたずんで楽園だとつぶやいたそうです。太陽に照らされた海とジャングルの島々との対比が美しかったのでしょう。小さな転々とした島々は一面にジャングルに覆われています。よく見ると、白い砂でしか成り立っていない、海面すれすれの島によく木が生い茂るものだと不思議な感がします。19世紀の終わりにアメリカ人が入植し、バナナ産業を興しました。その後、一大産業となり、今も大量のバナナを海外に輸出しています。

f:id:shuasai1207:20200131131523j:plainバティスメントス

 イチゴヤドクガエルはヤドクガエルの中で一番小さく、体長1.2cmで、よく地面に近い葉の上に止まっています。毒も非常に強く、その毒を先住民族は毒矢に使っていました。繁殖は他のヤドクガエルと同じですが、葉の上に溜まっている水にオタマジャクシを入れ、水が少なくなれば、他の葉の上の水たまりに運んで栄養を与えながら育てます。

 

       アミスタット国立公園(3)

 

私と妻がロス・ケッツァレス・ロッジを訪ね、その時、ケツァールを観察できた情景を妻が下記の紀行文で記しています。この文は埼玉市民文芸にも掲載されました。

    妖精の森の中に包まれて

 アミスタッド国立公園は、中をコスタリカと二分する世界遺産に指定されている森である。分類すると、熱帯雲霧林といって常に適度な湿り気を帯びている森である。そのため木々に苔や藻が発生する。それらが朝露、夜露にあたると美しく輝く。とくに早朝、太陽の光が木の幹、枝についている苔の露に反射して、きらきら輝く様を見たときは、妖精がまるで、
「おはよう、ようこそ」
と迎えてくれているような錯覚を覚える。
また、この森は、幻の鳥といわれているケツァールが住んでいることでも有名。私と主人は、この森を見るべく、また何としてもケツァールを見たくて、8月、ロスケッツサレスロッジを訪れた。時期としては最悪であった。ケツァールは7月から12月ころまでは、めったに姿を現すことはないというからだ。しかし、日本に帰らねばならない私たちにとって、ノーチョイス、それでも運がよければ見ることができるかも、という一言を頼りに出かけることにした。
 アミスタッドの森の入り口に最も近い、バスの最終駅であるガダルーぺの町に着いた時はすでに暗くなっていた。標高2千M。セーターかジャケットがないと寒い。ロッジの迎えの4X4に乗り換えて、アミスタッド国立公園内にある森の中のキャビンに向かった。時間的にはたったの2,30分だと思うが、うっそうとした森、岩だらけのでこぼこ道、時には小川を入っていくというドライブに、すごいところに来てしまったと思った。車のライトを消したら、墨を溶かしたような闇の世界である。車が止まった。森の管理人兼ガイドが、懐中電灯を持ってわれわれを待ってくれていた。彼のともす懐中電灯を頼りにさらに5~10分細い道を歩く。ライトに照らされて夜露に濡れた『ノビオ』(恋人という意味のスペイン語)という白い小さな花々が、浮き上がってくる。幻想的だ。

f:id:shuasai1207:20200121121941j:plainキャビン(山荘)


 キャビンではすでに、ストーブに薪が焚かれ、程よい暖かさになっていた。明かりはランプのみ、電気は引かれてない。キャビンは森のあちこちに4軒ほどあり、好みやグループのサイズなどで分けられる。わたしたちは、家族用のキャビン#2に泊まった。ストーブを囲んで暖をとるソファ、食事をするダイニング、キッチン、シャワーとトイレ、らせん状の階段を登った二階が寝室、とゆったりとしたスぺースがあり、外も中もすべて頑丈な木作りで趣がある。よくできていたが、ひとつ難点は、トイレとシャワーが同じ場所で、狭い。カーテンで仕切られてはいるが、使ったお湯が、トイレ側のフロアーにまで流れ込む。ガスが使われていて、熱いお湯がふんだんに出る。自炊できるようにすべて一式そろっているのもうれしい。早速、コーヒーで体を温め、濡れたものを干し、早朝に備えて寝ることにした。
森の朝は早い。鳥の声と、窓から差し込む柔らかい光に目を覚ますと、そこは見渡す限りの原生林。深い、深い、森の中に、自分がいることがわかった。ガイドの迎えに、食事もそこそこ、森を散策する。道々、ヘリコ二アの花や、日々草に似た花がびっしりと咲き、木々は早朝の太陽に照らされて、そこについている苔が光っている。新鮮な空気。私はここに来たことが間違いなかったと思った。所々にケツァールのための巣箱があったが、巣箱の主人は留守のようである。時期ならば必ず見ることができるという。ここに滞在した期間、私たちは、アミスタッドのトレイルや、ロスケッサレス トレイルなどをトレッキングした。残念ながらケツァールは見ることができなかったが、この森を知ることができたことは大満足であった。


2005年2月ついにケツァールを見る

 ロス・ケッサレス・ロッジのオーナー、 カルロスから、ケツァールがいるからこないか、と誘いがあった。明けて2005年のことである。あれから1年半が経っていた。2月第1週の週末、とるものもとりあえずチリキへ向かった。じつのところこの1年半、ケツァールのことが頭にこびりついてはなれなかった。わたしの心はケツァールに傾倒していた。ケツァールの習性として、大体2月がオスとメスがつがいとなる前で、複数のオスとメスが群れている。オスたちがメスたちの気を引くために恋の乱舞をする時期である。3月ごろにカップルが決まると古木に穴をあけ巣づくりを始める。メスが卵を産み3週間ほどで雛がかえるまでオスが前半身を巣に入れ、卵を温める。その頃に木にへばりついているオスの後姿の全形がみられる。4月ごろ、ヒナをある程度まで育て、飛べるようになると、ふもと近くのアグアカティーニョの実が終わりとなり、4月後半には家族でこの木の実を求めて森の奥へと移動する。だからふもと近くでケツァールが見られるのは木の実がある2月から4月はじめまでで、あとは森の奥へと探さないと見られない。 しかもそれも6月ごろまでである。わたしが以前訪れたのは8月であったので、無謀、無計画この上ないド素人のすることであったのだ。
今回はだいじょうぶ。カルロスが太鼓判を押してくれた。しかも強力なこの上ない味方があった。ニコンのスコープ。小型ながらどんな遠くの小さな鳥も鮮明にうつしだし、羽の光沢、鳥の表情までもとらえるとことできるというすぐれものであった。ガイドは、まだ若いこの地で生まれ育った イトー・ サンタマリア君といった。名まえが、イトーとはまるで日本人のようである。つづりを聞くとIto といった。日本人との血統的関係はまったくなく、ちょっと色の黒いラテン系である。苗字が、サンタマリアとはいかにもラテンらしい。超カトリック的である。かれが、このニコンのすぐれものと三脚を持って我々を案内するのだ。

f:id:shuasai1207:20200121122748j:plainガイドのイトー君(左側)


 1日目、朝7時、ロッジの前に我々とアメリカ人4人が集合。にわかツアーグループを組んだ。7時半、ロス ケッサレス トレイルの入り口に車を止める。入り口の手前、詳しく説明すると、そこはまだトレイルの中ではない。トレイル入り口という看板があるところから1メートルほど外側で、しかもしょうしゃな三角屋根の別荘の敷地内であった。そこに 『バンビート』という名のたくさん枝を張った大きなおおきな木があった。イトー君は、三脚をセッティングし始めた。
木の上を見上げるとすでに数羽のケツァールが実をついばんでいたのだ。我々一同は驚嘆した。車から降りてまだ歩いてもいないのに、もう夢にまで見たケツァールにご対面できたのである。カリフォルニアからきた夫婦は、ケツァールを見たさに92年にコスタリカを訪れ、その後数回行ったそうだ。山の中を歩いて、歩いてケツァールが来る木にたどり着き、それから3時間寒さに震えながら、待って待って、やっと一羽、しかもかすんで見えないような遠いところでその姿を拝んだだけに終わった。それが一回こっきりだった。後は数回コスタリカに行ったが全てからぶり、ケツァールには会えずじまいだった。
「そのケツァールにこんなに簡単に会えちゃっていいのか?!」
まさにそんな感じの驚きと、感動と、興奮で一同息を飲んだのである。その木には合計8羽のオスとメスが朝食をとっていた。また時にオスとメスが戯れのダンスをしていた。 うつくしい。言葉も出ないほどである。月並みな言葉だがほかにどんな形容詞を使って表現が出来るであろうか。ただ立ち尽くし、肉眼で見、双眼鏡で見、三脚のニコンのスコープでかわるがわるその動くさまを見入るのみである。一同、幸せに満ちた表情でうっとりと見入り動くことも出来ない。やはりそうだ。 『日光を見てから結構と言え』のことわざのごとく、『ケツァールを見てからバーダーと言え』そんな思いである。
 スコープでじっくりと観察する。オスは長い尾が2枚、少し短い尾が2枚あり、約全長1メートルという。それが風にたなびいて2枚、4枚と別れてひらひらとかぜにゆれる。緑色だが尾の先のほうに行くにしたがって青色に見える。頭から首の周り、後ろ全体が鮮やかな緑色である。頭の産毛のような羽がぼっぼっと立っていてかんむりになっている。それが太陽にあたると金色に光って見える。前の胸からおなかにかけて真紅と白の配色。後姿は緑一色のように見えるが前を向くと赤と緑と白のコントラストが美しく、これらが太陽の光で時には金色に見え、緑と青の尾が風にたなびく。
 オスの飛ぶ姿がまた優雅である。長い2枚の尾の飾り羽にさらに少し短い2枚の飾り羽がたおやかに空中に舞う。比翼の緑の羽のあいだから赤や白の色をした羽が見え隠れする。ひろげるとゆうに横1メートルになる羽を上下に羽ばたかせて、日の光の中を飛ぶ姿は、薄い絹の衣を着た天女が空を舞っているとも見えるのである。 メスは飾り羽の長い尾がない。全体的に地味な色であるが、頭と胸の部分が黄色に近い深緑色でそれが光線の加減で金色に見える。あるいは本当に金色なのかもしれない。ケツァールはオスもメスも羽に光沢があるので太陽の光線によく反射し、みる角度、人、周囲の状態、でいくとおりの色もに変化して見えるのである。
 ニコンのすぐれものは、さらにケツァールの表情までもとらえてくれた。なんといっても目がかわいい。 けがれなき真っ黒なつぶらな瞳、黄色い少し丸っこいくちばし。
ガイドのイトー君がケッサルの鳴きまねをすると、丸い頭をゆっくりとこちらに向けて、声の主を探すようなしぐさをする。あどけないしぐさである。いったん枝に止まると割と長くとどまっているのでよく表情を観察できるのもうれしい。ケツァールが1羽、また1羽、と去り始めた頃、イトー君に促され、やっとトレイルの中へと入っていった。藪の中にいるフウキンチョウ類を見た。1時間ほど歩いて再び、トレイルの入り口『バンビートの木』に戻ると、今度は6羽ほどのケツァールが止まっていた。前のと同じケツァールか、ちがうのか区別はつかないが、早朝約3時間で延べにして14羽を見たということになる。

f:id:shuasai1207:20200121123821j:plainアミスタット公園内の森


 翌、2日目の朝、今度はアミスタッド国立公園に行った。道幅も広く、よく整備された歩きやすい緩やかな勾配をケッサルの習性などを聞きながら歩いていると、道のすぐ脇の一本の古いおおきな潅木の程よい高さにケツァールがいた。ふっといた、という自然な出会いであった。
「あれ、ケツァール、そこにいたの、今あんたのことを話していたんだよ」
そんな感じである。またまた三脚を準備しニコンのスコープをかける。 昨日のケツァール達は、つがいになるまえの独身最後の自由を謳歌満喫していたが、このケツァールは、すでにつがいとなっていた。 オスのケツァールが緑色の全身を、茶色の潅木にへばりついて、きつつきが開けて途中で止めてしまった穴を利用して、こつこつと穴の続きをあけて巣づくりにはげんでいた。 その2メートルほど先のツルに、メスがいてオスの働き具合を監督している。オスは疲れるのか、ときどき、穴あけのしごとをやめ近くの枝に止まり休んだりしていた。 メスが卵を産んだあと、温め役はもっぱらオスの役目である。美しい飾り羽でメスを魅了していた独身時代のダンディーなオスも、結婚と共にメスにがっちりと管理され、マイホームパパに変身するというのも、なにやら人間社会と同じでほほえましい。 イトー君が、鳴きまねをするとオスもメスもこちらを振り返る。この日のほうが森の中で、しかもそんなに高いところでないのでもっとよく観察できた。前日は、昇ってくる太陽をさえぎるものがなかったので逆光となり、光沢はよくみえたが、じっくりとそのままの色をとらえることがむつかしかったのであった。今日は、太陽の光をまっすぐに受けて、森の緑と溶け合いケッサルの色、表情が手に取るようによくわかり真に具合がよかった。 オスとメスがしごとをやめ朝食に飛び立つまで、ニコンのスコープをのぞいたり、写真をとったりで3、40分もそこにいた。さらに行くと、1羽、また1羽とケツァールがぽつん、ぽつんと枝に止まっており、行きで4羽、帰りの道で2羽とこの日は合計延べにして6羽のケツァールを見る。
何が美しいのかといえば、やはり羽の色である。緑と赤の反対色のコントラストの中に純白の白が目に飛び込んで心に焼きつくのである。

f:id:shuasai1207:20200121124712j:plainロス・ケッツァレス・ロッジ


 帰り道、イトー君がやおら三脚を立てニコンのスコープの焦点を合わせ始めた。肉眼で目を凝らしてみてもどこに鳥がいるのかわからなかったが、スコープをみると、くっきりとあざやかな緑と赤のケッサルが1羽、真正面を向いてスコープの中に浮きあがってうつっていた。これはまさに驚嘆ものであった。肉眼で本体をとらえることが出来ないのに、丸いスコープの空間の世界に、その眼の表情までもリアルにそこに存在していることがこの世の出来事とは思われない気がするのである。 残念なことは、わたしのカメラでは望遠が届かず、写真に収められなかったことであった。
結論として言えることは、バードウオッチングはケチってはいけない、ということだ。
よいスコープ、よいカメラ、そして肉眼で見逃すようなものまでも見つけ出して我々に見せてくれるよいガイド、これらが合わさって、きてよかったという心からの満足、限りない幸福感につつまれる。 最近、デジカメとスコープをあわせたデジスコというのが人気と聞いた。それは、納得である。バードウオッチングの醍醐味が倍加する。そう考えると、以前見たハーピーイーグルも、遠くからの肉眼でこどものハーピーイーグルがおやどりを呼んでいる様子。そこにバタバタという音をたてて餌をくわえておやどりが来て、長いこと一緒に木の上の巣にいた。が、もし、性能のいいスコープがあればばっちりと表情を見ることができたろうに、またそこにカメラがくっついていたらいい写真を宝物のように永久保存できたろうに。もう、あそこにいた親子は巣立って今はいないという。夜中ふと目がさめてそんなことを回想して
 「うーん。ざんねんだったー。」
と歯ぎしりにも似た無念感がよぎったりする。だんだんわたしもバーダーとして深みにはまり込んでいくような気がしてきた。

           アミスタット国立公園(2)

 コスタリカと二分している公園は世界でも生物多様性が最も多い地域の一つで、数多くの固有種も生息しています。ジャガーピューマ、オウギワシなどの大型動物も。公園の入り口にある町がグァダルーペです。この町の中心にバードウォッチングで最も有名なロッジ、ロス・ケッツァレス・ロッジがあります。ここが、公園内のトレッキングコースとケッツァレス・トレイルコースの出発点です。世界からのバードウォッチャーの拠点になっています。ロッジ内には、レストランやカフェテリア、スパ、各部屋には熱いシャワーも備え付けられています。

 ロッジ周辺もバードウォッチングの有数なスポットですが、何といっても魅力的なのは公園内に位置する4つの山荘です。ロッジから4輪駆動で20分、川を渡り、道なき道を登り、闇の中に光っているランを見ながら、ジャングルの奥深くに辿り着きます。山荘は標高2300m、薪をくべる暖炉、ランタン、熱いシャワーがあり、ガスも引いてあり、パナマのコーヒーも味わえます。一番の魅力は、部屋から突き出ているベランダに立つと、鳥が止まっている木の枝と目線が合うことです。早朝から、地域の固有種、クロモモオウゴンイカル、クロキモモシトド、クビワアメリカムシクイ、クリボウシヤブシトドなどが木の枝を飛び交い、餌を探しています。時々、体全体が紫色で、光線で光っている鮮やかなハチドリが飛んできます。さらに、山荘を下ると、ロッジ所有のトレッキングコースがあらゆる方向に延びています。熱帯雲霧林の真っ只中で、苔が木全体を覆い、それがツルと一緒に垂れ下がり、何とも言えない光景を生み出します。全くの静寂の中に、森の妖精が現れてくるような感じです。パナマで一番の降水量と高い標高がこの独特の景観を生み出しています。奥に進むと、時期になれば必ずと言っていいほど、ケツァールのつがいが見られます。大抵、メスが先に見られ、その背後にオスが隠れていて、長い尾をたどればオスも観察することができます。

 ロッジから少し登ると、パナマで繁殖しているランを全て収集している農園、フィンカ・ドラキュラがあります。固有種ラン・ドラキュラなど2000種以上のランが生育しているのを見ることができます。

 

f:id:shuasai1207:20200116160636j:plainロス・ケッツァレス山荘

全体が黒い体の中で、二つの黄色い腿が目立ちます。山荘の周りをよく飛び回り、大きな体にしては細い脚なので、歩くのがぎこちないようです。非常に愛嬌のある鳥のように感じられました。

f:id:shuasai1207:20200116155525j:plainロス・ケッツァレス山荘

山荘の周りをいつも飛んでいます。非常に人懐こいようで、近づいても逃げず、よく観察できます。栗色のカンムリと、黄色の喉に黒い首輪が特徴で、すぐ見分けがつきます。かわいらしい顔つきをしています。

f:id:shuasai1207:20200116160848j:plainロス・ケッツァレス山荘

ハチドリの中ではやや大きく、開けた森によく見られます。飛んでいるときは、体全体の濃い紫と尾の下部の白色のコントラストで非常に壮観です。絵では描けない光輝いた色です。地域特有のヘリコニアなどの花の蜜を吸うため、嘴が長く曲がっています。よく花の周りを羽ばたきながら、空中で止まっています。以下はこの地域で見られた鳥の種類です。

ヨコジマモリハヤブサ          オナガレンジャクモドキ

オビオバト               チャボウシツグミ

ミドリボウシテリハチドリ        ハシグロチャツグミ  

パナマノドジロフトオハチドリ      ワキアカオリーブツグミ

ノドジロメジリハチドリ         キバネモズモドキ

アオノドハチドリ            キイロタヒバリ

ムラサキケンバネハチドリ        ウィルソンアメリカムシクイ

ヒノドハチドリ             ナツフウキンチョウ

クロスジオジロハチドリ         ノドアカアメリカムシクイ

ズグロムシクイカマドドリ        クビワアメリカムシクイ

サビイロヒゲオカマフグリ        ホオグロアメリカムシクイ

カザリキヌバネドリ           ズアオミドリフウキンチョウ

エダハシゴシキドリ           サザナミフウキンチョウ

キバシミドリチュウハシ         マユジロヤブフウキンチョウ

セジロアカゲラ             クロキモモシトド

ウスブチタイランチョウ         クロモモオウゴンイカ

メジロハエトリ            ズグロイカ

キンビタイオタテドリ          オオアシシトド

ヤブミソサザイ             クリボウシヤブシトド

ハイムネモリミソサザイ         アカハシシズカシトド

キバシヒトリツグミ           ウスズミシトド

ズアカサザイ              キバラクロヒワ

セグロレンジャクモドキ         ハイイロヒメウソ

アカエリシトド             クロシャクケイ

 ハナサシミツドリ