アミスタット国立公園(3)

 

私と妻がロス・ケッツァレス・ロッジを訪ね、その時、ケツァールを観察できた情景を妻が下記の紀行文で記しています。この文は埼玉市民文芸にも掲載されました。

    妖精の森の中に包まれて

 アミスタッド国立公園は、中をコスタリカと二分する世界遺産に指定されている森である。分類すると、熱帯雲霧林といって常に適度な湿り気を帯びている森である。そのため木々に苔や藻が発生する。それらが朝露、夜露にあたると美しく輝く。とくに早朝、太陽の光が木の幹、枝についている苔の露に反射して、きらきら輝く様を見たときは、妖精がまるで、
「おはよう、ようこそ」
と迎えてくれているような錯覚を覚える。
また、この森は、幻の鳥といわれているケツァールが住んでいることでも有名。私と主人は、この森を見るべく、また何としてもケツァールを見たくて、8月、ロスケッツサレスロッジを訪れた。時期としては最悪であった。ケツァールは7月から12月ころまでは、めったに姿を現すことはないというからだ。しかし、日本に帰らねばならない私たちにとって、ノーチョイス、それでも運がよければ見ることができるかも、という一言を頼りに出かけることにした。
 アミスタッドの森の入り口に最も近い、バスの最終駅であるガダルーぺの町に着いた時はすでに暗くなっていた。標高2千M。セーターかジャケットがないと寒い。ロッジの迎えの4X4に乗り換えて、アミスタッド国立公園内にある森の中のキャビンに向かった。時間的にはたったの2,30分だと思うが、うっそうとした森、岩だらけのでこぼこ道、時には小川を入っていくというドライブに、すごいところに来てしまったと思った。車のライトを消したら、墨を溶かしたような闇の世界である。車が止まった。森の管理人兼ガイドが、懐中電灯を持ってわれわれを待ってくれていた。彼のともす懐中電灯を頼りにさらに5~10分細い道を歩く。ライトに照らされて夜露に濡れた『ノビオ』(恋人という意味のスペイン語)という白い小さな花々が、浮き上がってくる。幻想的だ。

f:id:shuasai1207:20200121121941j:plainキャビン(山荘)


 キャビンではすでに、ストーブに薪が焚かれ、程よい暖かさになっていた。明かりはランプのみ、電気は引かれてない。キャビンは森のあちこちに4軒ほどあり、好みやグループのサイズなどで分けられる。わたしたちは、家族用のキャビン#2に泊まった。ストーブを囲んで暖をとるソファ、食事をするダイニング、キッチン、シャワーとトイレ、らせん状の階段を登った二階が寝室、とゆったりとしたスぺースがあり、外も中もすべて頑丈な木作りで趣がある。よくできていたが、ひとつ難点は、トイレとシャワーが同じ場所で、狭い。カーテンで仕切られてはいるが、使ったお湯が、トイレ側のフロアーにまで流れ込む。ガスが使われていて、熱いお湯がふんだんに出る。自炊できるようにすべて一式そろっているのもうれしい。早速、コーヒーで体を温め、濡れたものを干し、早朝に備えて寝ることにした。
森の朝は早い。鳥の声と、窓から差し込む柔らかい光に目を覚ますと、そこは見渡す限りの原生林。深い、深い、森の中に、自分がいることがわかった。ガイドの迎えに、食事もそこそこ、森を散策する。道々、ヘリコ二アの花や、日々草に似た花がびっしりと咲き、木々は早朝の太陽に照らされて、そこについている苔が光っている。新鮮な空気。私はここに来たことが間違いなかったと思った。所々にケツァールのための巣箱があったが、巣箱の主人は留守のようである。時期ならば必ず見ることができるという。ここに滞在した期間、私たちは、アミスタッドのトレイルや、ロスケッサレス トレイルなどをトレッキングした。残念ながらケツァールは見ることができなかったが、この森を知ることができたことは大満足であった。


2005年2月ついにケツァールを見る

 ロス・ケッサレス・ロッジのオーナー、 カルロスから、ケツァールがいるからこないか、と誘いがあった。明けて2005年のことである。あれから1年半が経っていた。2月第1週の週末、とるものもとりあえずチリキへ向かった。じつのところこの1年半、ケツァールのことが頭にこびりついてはなれなかった。わたしの心はケツァールに傾倒していた。ケツァールの習性として、大体2月がオスとメスがつがいとなる前で、複数のオスとメスが群れている。オスたちがメスたちの気を引くために恋の乱舞をする時期である。3月ごろにカップルが決まると古木に穴をあけ巣づくりを始める。メスが卵を産み3週間ほどで雛がかえるまでオスが前半身を巣に入れ、卵を温める。その頃に木にへばりついているオスの後姿の全形がみられる。4月ごろ、ヒナをある程度まで育て、飛べるようになると、ふもと近くのアグアカティーニョの実が終わりとなり、4月後半には家族でこの木の実を求めて森の奥へと移動する。だからふもと近くでケツァールが見られるのは木の実がある2月から4月はじめまでで、あとは森の奥へと探さないと見られない。 しかもそれも6月ごろまでである。わたしが以前訪れたのは8月であったので、無謀、無計画この上ないド素人のすることであったのだ。
今回はだいじょうぶ。カルロスが太鼓判を押してくれた。しかも強力なこの上ない味方があった。ニコンのスコープ。小型ながらどんな遠くの小さな鳥も鮮明にうつしだし、羽の光沢、鳥の表情までもとらえるとことできるというすぐれものであった。ガイドは、まだ若いこの地で生まれ育った イトー・ サンタマリア君といった。名まえが、イトーとはまるで日本人のようである。つづりを聞くとIto といった。日本人との血統的関係はまったくなく、ちょっと色の黒いラテン系である。苗字が、サンタマリアとはいかにもラテンらしい。超カトリック的である。かれが、このニコンのすぐれものと三脚を持って我々を案内するのだ。

f:id:shuasai1207:20200121122748j:plainガイドのイトー君(左側)


 1日目、朝7時、ロッジの前に我々とアメリカ人4人が集合。にわかツアーグループを組んだ。7時半、ロス ケッサレス トレイルの入り口に車を止める。入り口の手前、詳しく説明すると、そこはまだトレイルの中ではない。トレイル入り口という看板があるところから1メートルほど外側で、しかもしょうしゃな三角屋根の別荘の敷地内であった。そこに 『バンビート』という名のたくさん枝を張った大きなおおきな木があった。イトー君は、三脚をセッティングし始めた。
木の上を見上げるとすでに数羽のケツァールが実をついばんでいたのだ。我々一同は驚嘆した。車から降りてまだ歩いてもいないのに、もう夢にまで見たケツァールにご対面できたのである。カリフォルニアからきた夫婦は、ケツァールを見たさに92年にコスタリカを訪れ、その後数回行ったそうだ。山の中を歩いて、歩いてケツァールが来る木にたどり着き、それから3時間寒さに震えながら、待って待って、やっと一羽、しかもかすんで見えないような遠いところでその姿を拝んだだけに終わった。それが一回こっきりだった。後は数回コスタリカに行ったが全てからぶり、ケツァールには会えずじまいだった。
「そのケツァールにこんなに簡単に会えちゃっていいのか?!」
まさにそんな感じの驚きと、感動と、興奮で一同息を飲んだのである。その木には合計8羽のオスとメスが朝食をとっていた。また時にオスとメスが戯れのダンスをしていた。 うつくしい。言葉も出ないほどである。月並みな言葉だがほかにどんな形容詞を使って表現が出来るであろうか。ただ立ち尽くし、肉眼で見、双眼鏡で見、三脚のニコンのスコープでかわるがわるその動くさまを見入るのみである。一同、幸せに満ちた表情でうっとりと見入り動くことも出来ない。やはりそうだ。 『日光を見てから結構と言え』のことわざのごとく、『ケツァールを見てからバーダーと言え』そんな思いである。
 スコープでじっくりと観察する。オスは長い尾が2枚、少し短い尾が2枚あり、約全長1メートルという。それが風にたなびいて2枚、4枚と別れてひらひらとかぜにゆれる。緑色だが尾の先のほうに行くにしたがって青色に見える。頭から首の周り、後ろ全体が鮮やかな緑色である。頭の産毛のような羽がぼっぼっと立っていてかんむりになっている。それが太陽にあたると金色に光って見える。前の胸からおなかにかけて真紅と白の配色。後姿は緑一色のように見えるが前を向くと赤と緑と白のコントラストが美しく、これらが太陽の光で時には金色に見え、緑と青の尾が風にたなびく。
 オスの飛ぶ姿がまた優雅である。長い2枚の尾の飾り羽にさらに少し短い2枚の飾り羽がたおやかに空中に舞う。比翼の緑の羽のあいだから赤や白の色をした羽が見え隠れする。ひろげるとゆうに横1メートルになる羽を上下に羽ばたかせて、日の光の中を飛ぶ姿は、薄い絹の衣を着た天女が空を舞っているとも見えるのである。 メスは飾り羽の長い尾がない。全体的に地味な色であるが、頭と胸の部分が黄色に近い深緑色でそれが光線の加減で金色に見える。あるいは本当に金色なのかもしれない。ケツァールはオスもメスも羽に光沢があるので太陽の光線によく反射し、みる角度、人、周囲の状態、でいくとおりの色もに変化して見えるのである。
 ニコンのすぐれものは、さらにケツァールの表情までもとらえてくれた。なんといっても目がかわいい。 けがれなき真っ黒なつぶらな瞳、黄色い少し丸っこいくちばし。
ガイドのイトー君がケッサルの鳴きまねをすると、丸い頭をゆっくりとこちらに向けて、声の主を探すようなしぐさをする。あどけないしぐさである。いったん枝に止まると割と長くとどまっているのでよく表情を観察できるのもうれしい。ケツァールが1羽、また1羽、と去り始めた頃、イトー君に促され、やっとトレイルの中へと入っていった。藪の中にいるフウキンチョウ類を見た。1時間ほど歩いて再び、トレイルの入り口『バンビートの木』に戻ると、今度は6羽ほどのケツァールが止まっていた。前のと同じケツァールか、ちがうのか区別はつかないが、早朝約3時間で延べにして14羽を見たということになる。

f:id:shuasai1207:20200121123821j:plainアミスタット公園内の森


 翌、2日目の朝、今度はアミスタッド国立公園に行った。道幅も広く、よく整備された歩きやすい緩やかな勾配をケッサルの習性などを聞きながら歩いていると、道のすぐ脇の一本の古いおおきな潅木の程よい高さにケツァールがいた。ふっといた、という自然な出会いであった。
「あれ、ケツァール、そこにいたの、今あんたのことを話していたんだよ」
そんな感じである。またまた三脚を準備しニコンのスコープをかける。 昨日のケツァール達は、つがいになるまえの独身最後の自由を謳歌満喫していたが、このケツァールは、すでにつがいとなっていた。 オスのケツァールが緑色の全身を、茶色の潅木にへばりついて、きつつきが開けて途中で止めてしまった穴を利用して、こつこつと穴の続きをあけて巣づくりにはげんでいた。 その2メートルほど先のツルに、メスがいてオスの働き具合を監督している。オスは疲れるのか、ときどき、穴あけのしごとをやめ近くの枝に止まり休んだりしていた。 メスが卵を産んだあと、温め役はもっぱらオスの役目である。美しい飾り羽でメスを魅了していた独身時代のダンディーなオスも、結婚と共にメスにがっちりと管理され、マイホームパパに変身するというのも、なにやら人間社会と同じでほほえましい。 イトー君が、鳴きまねをするとオスもメスもこちらを振り返る。この日のほうが森の中で、しかもそんなに高いところでないのでもっとよく観察できた。前日は、昇ってくる太陽をさえぎるものがなかったので逆光となり、光沢はよくみえたが、じっくりとそのままの色をとらえることがむつかしかったのであった。今日は、太陽の光をまっすぐに受けて、森の緑と溶け合いケッサルの色、表情が手に取るようによくわかり真に具合がよかった。 オスとメスがしごとをやめ朝食に飛び立つまで、ニコンのスコープをのぞいたり、写真をとったりで3、40分もそこにいた。さらに行くと、1羽、また1羽とケツァールがぽつん、ぽつんと枝に止まっており、行きで4羽、帰りの道で2羽とこの日は合計延べにして6羽のケツァールを見る。
何が美しいのかといえば、やはり羽の色である。緑と赤の反対色のコントラストの中に純白の白が目に飛び込んで心に焼きつくのである。

f:id:shuasai1207:20200121124712j:plainロス・ケッツァレス・ロッジ


 帰り道、イトー君がやおら三脚を立てニコンのスコープの焦点を合わせ始めた。肉眼で目を凝らしてみてもどこに鳥がいるのかわからなかったが、スコープをみると、くっきりとあざやかな緑と赤のケッサルが1羽、真正面を向いてスコープの中に浮きあがってうつっていた。これはまさに驚嘆ものであった。肉眼で本体をとらえることが出来ないのに、丸いスコープの空間の世界に、その眼の表情までもリアルにそこに存在していることがこの世の出来事とは思われない気がするのである。 残念なことは、わたしのカメラでは望遠が届かず、写真に収められなかったことであった。
結論として言えることは、バードウオッチングはケチってはいけない、ということだ。
よいスコープ、よいカメラ、そして肉眼で見逃すようなものまでも見つけ出して我々に見せてくれるよいガイド、これらが合わさって、きてよかったという心からの満足、限りない幸福感につつまれる。 最近、デジカメとスコープをあわせたデジスコというのが人気と聞いた。それは、納得である。バードウオッチングの醍醐味が倍加する。そう考えると、以前見たハーピーイーグルも、遠くからの肉眼でこどものハーピーイーグルがおやどりを呼んでいる様子。そこにバタバタという音をたてて餌をくわえておやどりが来て、長いこと一緒に木の上の巣にいた。が、もし、性能のいいスコープがあればばっちりと表情を見ることができたろうに、またそこにカメラがくっついていたらいい写真を宝物のように永久保存できたろうに。もう、あそこにいた親子は巣立って今はいないという。夜中ふと目がさめてそんなことを回想して
 「うーん。ざんねんだったー。」
と歯ぎしりにも似た無念感がよぎったりする。だんだんわたしもバーダーとして深みにはまり込んでいくような気がしてきた。