イグアナ島、カーニャ島野生生物保護区

 

 イグアナ島とカーニャ島はパナマで唯一、太平洋側に突き出ているアスエロ半島の南端から数キロの沖合に出た島です。この半島はほとんど森林が伐採されて、牧場に取って代わられています。自然はあまり残されていませんが、歴史的には、この地域はスペインの血が強く入っていて、住民の容姿はヨーロッパ的です。パナマの伝統衣装のポジェラや踊りの発祥の地であり、伝統的カーニバルもスペイン風で、スペイン文化が色濃く残っています。しかし、もっと特徴的なものが半島にあります。海に関心ある多くのスポーツマン、海の生物の冒険家や観察者などをひきつけてやまないもの。つまり、サーフィング、フィッシング、ウミガメウォッチング、スノーケリング, ダイビングなどです。イグアナ島は太平洋側でありながら、非常に水が澄んでいて、周囲の海の色は緑とコバルトブルーです。海のきれいなカリブ海しか見られないと思ったサンゴ礁をスノーケリング、ダイビングで見ることができます。また、何といっても、そこに群がる海鳥も圧巻です。アメリカグンカンドリや、カツオドリは島の上空を群れて旋回し、カッショクペリカンは海辺で戯れています。カーニャ島は、満ち潮でないと、ボートで島に渡れません。細い入り江をボートで進むと、マングローブの木々の下にはカラフルなカニが出迎えてくれます。島の海岸に、8月から11月にかけて、何千というウミガメが産卵しにやってきます。世界で5か所のうちの一つに数えられているウミガメが集結する場所です。多くの観察者や研究者が集まります。また、日本からサーフィングのチームがやってきましたし、パナマから釣り人がボートで釣り糸を垂らし、マグロ釣りを行います。

f:id:shuasai1207:20190807171532j:plainイグアナ島

アメリカグンカンドリは主に太平洋側の島に巣や、休み場所を造っています。ほとんど群れて飛んでいます。飛んでいる時は、上空高く舞っていて、餌を取るときは、旋回しながら海の表面にいる魚を狙って急降下します。オスは繁殖期に、のどにある赤い袋を風船のようにいっぱいに膨らませて、メスにアピールします。

 

 ウミガメの集結時期を狙って、私と妻が産卵の観察に行きました。その顛末を妻が紀行文に書きました。

 

   海がめのたどりつく島 イスラ・デ・カーニャ

 

2004年の10月終わり、トムから電話が来た。

「ウミガメの産卵のことですが。来月はじめから1週間ぐらいの間、ウミガメの大群が産卵に来るそうです。行きますか?」

トムは、私たち夫婦のビジネスの協力者である。この人なくしてはパナマでの暮らしは不可能だったといっても過言ではない。数少ない信頼のおける友人であった。

たしかに主人と私は、トムに会うたびにウミガメのことを口にしていた。

「もちろん、いきます」

二つ返事である。

「でも残念ですが、自分は11月いっぱい仕事でアメリカへ行かないといけません。手続きしておきますから、ご自分たちで行ってください」

 

ウミガメが産卵のために、海岸の砂浜に上がってくる。大群で到来する現象をアリバダ(ARRIBADAといい、その大群はあるときには百万頭になることもあると聞く。世界中で八ヵ所のみ、アリバダ現象がみられる。その中の一つにパナマが入っている。

ちなみに他の場所は、コスタリカに2ヵ所、メキシコ2ヵ所、ニカラグア2ヵ所、インド1ヵ所、それにパナマの1ヵ所を加えて、合計8ヶ所となる。パナマにいる限り、これを見逃すわけにはいかない。たとえトムという心強い助っ人がいなくても、だ。

 

パナマから太平洋側を遠くはテキサスまでとつながるパン・アメリカーナ国道がある。その道を第2の都市、ダビーに向かっていく途中に、ロス サントス半島がある。パン・アメリカーナから沿岸のほうへと曲がり、ペダシという町へいく。そこまでで約66、7時間かかる。さらに3、40分いった海岸端に、カーニャという町がある。そこから、渡し舟のようなボートで5分、イスラ  カーニャ。 カーニャ島、 『さとうきびの島』 という名の島に到着する。

 この島が、有名なウミガメが産卵にくる場所だ。

8月末から11月はじめ頃まで、アリバダ現象がみられる。この年は異常気象のためか、大群といえるほどの何千、何万という群れが、まだやってこないというニュースがあった。

今年の産卵ももう終わりが近づいている。産卵から45か50日で、卵が孵りかわいらしい子亀が、よちよちと海へ戻っていく。

これが最後のチャンスである。

 

トムが立ててくれた1泊2日の日程は、午前中にパナマの自宅を出発、ペダシの町で夕食を済ませ、そのままカーニャ島へ向かう。夜8時ごろからツアーが出るのでそれに参加し、11時に、ボートで引き返し、ペダシの「レジデンシア・ モスコーソ」に泊まる。カーニャ島には観光客用の宿泊施設がないのだそうだ。ペダシでゆっくり休んで、パナマへ帰る。

(夜中じゅう産卵の光景を見るんじゃないの?たった3時間でだいじょうぶ?) 

 いつもの不安がよぎった。

 

すっかり夜になった。渡し舟の船着場には、こどもたちが駄賃欲しさに待っていた。

ボートの船頭がいうことには、このあたりは潮の満ち引きが激しく、引き潮になると、周りがマングロープに覆われたボートの道は干上がり、根っこが絡んでボートは出せなくなる。 今夜は8時までに渡り終えないと、カーニャ島へは行けなくなってしまう、のだ。

7時を回っていた。急いでボートに飛び乗った。

 ふと、我々は、

  「帰りは、どうする!」

という疑問が浮かんだ。島に泊まる予定はない。完全に潮が引いてしまうのは、12時だそうだ。なんとか、それまでにカメをみて陸地にもどらなければならない。何とも大変な夜になりそうだ。

島の中央付近にANAN ( パナマ環境省) の事務所があった。すでに職員によるオリエンテーションが行われていた。

ざっと30人ほどの若者が集まっていた。今夜のツアーの参加者だ。

よくよく見ると、小学生らしい子どもが多い。こどもの親やおじさんおばさん、学齢期前の小さな弟、妹連れがけっこういる。皆現地の人たちらしい。観光客は、と見るが我々のほかに体格の良いでっぷりとした白人が3名ほどだ。ようするに5人の観光客に、理科の実地学習の子供会とその親たち25名が今夜のツアーというわけだ。

世界的に名高いカメの産卵の聖地にしては、あまりにローカル。

ちょっと拍子抜けがした。

事務所の人の話では、カメが浜辺に上がってくるのは、潮が引きはじめる10時過ぎからであるという。

( ほらほら、来た来た。この不安の予感……、10時にはペダシへ戻るボートに乗らないといけないんだよ。どうする。)

考えるに、この25人の子供会連中は、カーニャ島かその周辺の人たちだ。たぶん彼らはこの島に親戚やら知り合いやらがいて、今夜は夜じゅうカメの産卵を見るつもりで来たのだろう。今夜中に帰らないといけないのは白人たちとアジア人の5人だけだ。いや、かれらだってもしかしたら、ANANの知り合いとかでこの島に泊まるつもりなのかもしれない。

私は、ボートの停泊場へ急いだ。10時の予定を11時に変更するためだ。

f:id:shuasai1207:20190810124556j:plainカーニャ島の夕焼け


8時半過ぎ、ANANのガイドの引率で、ぞろぞろと一団が海岸へ繰り出した。馬車が

1台加わり、荷台に子供たちが鈴なりに乗っている。その周りを数匹の犬が、まとわりつき、嬉しそうにじゃれまわっている。一様に底のすり減ったビーチサンダルをつっかけ、ペタペタしている。その光景はなんだか懐かしい昭和初期の空気がする。そのにぎやかなこと。

「懐中電灯をつけるな!」

とあれほど、オリエンテーションのとき、厳重注意を受けているにもかかわらず、あっちで1人、こっちで1人、つけては消し、つけては消し。こどもたちの甲高いおしゃべりはとめどなく、犬のきゃん、きゃんという声が、耳に響く。

ガイドの地声が大きい。大声でこどもたちに、カメを見たときの様子とか、カメがきたらどうしなければいけないか、話している。そして時折、更なる大声で、

「こら、 そこの坊主! 懐中電灯を消せ! 」

などとわめいている。わたしは、心配になってきた。こんなに明かりをパチパチして、こんなに大声でしゃべりまくって。おまけに馬のいななきと、犬のワンワンという声だ。こんな状態で産卵という一大事をひかえたカメが、おじけずいてしまわないだろうか。今日は止めた、とばかり、引き帰してしまわないだろうか。本気で心配した。神聖な産卵をするのである。 

「しずかにしろよ、きみたち」 

といいたくなった。

ガイドいわく、明かりは消さないといけないが、カメは声には案外鈍感だから、かまわないそうだ。

( ほんとかなぁ )

島の海岸線は広い。かれこれ1キロも歩いただろうか、ガイドは、やおら立ち止まり、

ここから先は保護区域だから進入禁止だ、という。我々一団は、思い思いに座り込んで、海を見つめていた。カメの姿はまだない。10時になっていた。

やおら、ガイドが立ち上がり、もう少し先へ歩こうといった。

 「えっ! だいじょうぶ? 立ち入り禁止だったはずだよ。砂浜の中には孵化を待っている卵があるじゃない!卵、踏んじゃったらどうするの?」

先へ先へと、あるき、再び休んで、今度は回れ右をして、あるけ、あるけである。

考えるに夜中そうやってかめの上陸を待つ策のようである。我々が海岸線を右に向かって歩いているとき、もし、亀が左の端に現れたらどうなる!

 

11時になった。

たまりかねて、われわれだけ帰ることをガイドにつげた。かれは、あたかも前線から脱落していく敗残兵を見るような目つきで、

「それは、まことに残念だ。12時過ぎから夜明けまでが勝負なんだがなー。

またおいで。

今度はこの島で泊まれるようにしといてあげるからよ」

月の欠け具合によれば、6日ごろが大群がくる時期である。我々は再会を約束し、いそぎ渡し舟まで走った。ボートに乗るのは我々のほかに、例の白人の3名である。ボートを待つ間の簡単な自己紹介で、彼らはパナマ駐在のロシア大使館の人たちだと知った。

案の定、海はほぼ、引いていた。

ボートは、ちょっと海の上を走ったがすぐに止まった。これから先はいけない。

「降りて歩いてくれ」

我々を降ろすと、ボートは島へ引き返した。

下弦の月と満天の星が、マングローブの茂みを黒々と照らしていた。

5人は靴をぬぎ、ズボンを膝上までたくし上げ泥沼化した筋を、半島の突先にあるカーニャ漁村へと歩きはじめた。

膝下まで、泥にはまる。5本の足指の間からニュルッと泥が入ってくるのがたまらない。

スッポン、スッポン、と一同、泥沼道を助け合いながら、4、50分は歩いたとおもう。

「足がぬけない、ひっぱりあげてくれ!」

「自分もだ。あぁ、倒れるー」

などと口々にわめきながら、ひたすら懐中電灯を頼りに、一歩また一歩と足を進める。小柄な私は、たくましいロシア人の腕に抱え上げながらの行軍だった。

岸にようやくたどり着いたのは、真夜中の二時近くだった。陽気で力持ちのロシア大使館の3人がいなかったら、たぶんマングローブの茂みの中にはまり込んだまま一夜を明かし、悪くすれば息絶えていたかもしれない。たとえ彼らがロシアのスパイであろうとも、ウオッカに浮かれたような屈託のない笑い声に助けられた。

期待していた産卵を見ることができず、しかも最後には「落ち」のような、泥沼行進の罰ゲームがあったりした。彼らがいなくてくそまじめな典型的日本男性の主人と二人っきりだったらと思うと、ぞっとする。旅は道連れというが、この人たちに出会えたことで楽しい思い出となった。感謝だった。

ロシア人たちは陽気に、車の音楽のボリュームを上げ、泥を落とし、別れをつげて、闇の中に消えた。その後、長くパナマに住んだが再び、彼らロシア人と再会することはなかった。まさしく一期一会だ。

我々も、とにかく頭にあることは、はやく、あのペダシの 『 レジデンシア モスコソ』 にたどり着くことだった。1泊16ドルの、時代がかって寝心地の悪い ベットも、いまとなっては最高級であった。そこに戻りたい。そしてこびりついた泥を、生ぬるいお湯しか出ないシャワーで思いっきり洗い流したい。そのことのみであった。

 海がめの産卵という神聖なものをみるのは、簡単なものではなかった。

それが、パナマだ。

 

主人は、そういえば、誰かからの話だそうだが、といった。それはずーと前、テレビのドキュメンタリー番組で、コスタリカのトルトゲーロというところでの海がめの産卵の様子を放映していた、とその人がいった、というのだ。

そこの海岸線にホテルがあって、人は、ホテルのバルコニーから上がってくる亀を観察できるのだそうだ。それを聞いて私は思った。

それは素晴らしい。それなら便利だ。ベランダのいすに腰掛けて、待てばいいわけだ。

そこに1杯の紅茶か、コーヒー、夜食のクッキーでも置いて、うたた寝しながらかめを待つ。なんと優雅なことだろう。

私が経験したパナマでのような、馬車あり、犬あり、子供あり、1団がぞろぞろぞろぞろ……。カメをさがして夜中うろつきまわらなくてもいいのだ。

しかし、そうやって海岸の端から端を歩き回っているうちに、なんとなく近親感をおぼえ、あの日、あのとき、いっしょにうみがめをみた私たち的仲間意識が出来るのも面白い。

パナマ式楽しみ方は泥臭く、田舎くさく、でも、後々まで印象に残るのである。

 

f:id:shuasai1207:20190810125954j:plain陸に上がる海がめ

 

さて、われわれは約束したとおり、11月6日再び、カーニャ島に向かった。

やはり、カメの産卵を写真に収めないといけない、というなんだか責任感、使命感、義務感のようなものが先立ったからだ。

先回のことを教訓に、今度はばっちり日にちを取り、宿泊の準備もし、食料品も買い込み、昼寝も済ませ、万全を整えた。今回の宿泊先は、ANANの口利きでカーニャ島の中の1軒に民泊できた。

夕方5時ごろには島にいて、海岸のすばらしい夕焼けをカメラに収めた。

夜9時かっきりにドアがノックされ、ガイドがぬぅーっと現れた。

さぁ、これから海岸へ出発である。

ガイドとともに海岸に行く人たちは、というと、見渡しても我々以外に誰もいない。

「われわれだけー」

肩透かしを食らった。わいわい、がやがや、どこだ、どこだ、犬は喜び、尻尾を振り振りついてくる、あの先回の集団は夢のようで、今回は、ひっそりと、犬までもついてこない。

聞くところによると、前日はなんとか記念日でパナマ人は飲めや、踊れやのフィエスタだった。きょうは二日酔いで静まりかえっているのだそうだ。

われわれはお行儀よく、ガイドの言われるままに懐中電灯もつけず、物音も立てず、月明かりだけをたよりに海岸を歩いた。ちょっとさびしい。

やがて5分もしないで、ガイドは星明りだけの中で、かめの足跡を見つけた。しかし、このカメ、すでに産卵を終わって海に帰ったばかりだ、という。

どうしてそれがわかるのだろう。

聞いたところ、海がめの足跡 『タートルトラック』 が2本くっきりとついていた。産卵に来たときと、終えて帰ったときと両方の足あとである。また5分もしないで、ガイドは浜辺の藪草の生えかかった付近に向かって歩き出した。ここで、亀が、産卵のための穴掘りをしているという。どんなに目を凝らしても、それらしい光景は私の目に見えてこない。

暗闇に慣れてないわれわれの眼には、何も見えないのである。仕方なくガイドは一瞬懐中電灯をともしてくれた。

「いたっ!」

砂だらけになって、後ろ足で一生懸命にカメは、穴を掘っていた。

オールのような形の脚で懸命に砂を掘っていたが、なかなか掘り進まない。気が滅入るような仕事である。とうとうたまりかねたガイドが、慣れた手つきで、穴掘りをうしろからそっと手伝った。カメが手か足の平で深さを測りつつ、満足する深さまで来ると動かなくなった。やがてピンポン玉のような卵を産み始めた。

 「あっ、はじまった。」

それからは夢中でシャッターを押しまくった。次から次へと卵を産み、瞬く間に穴は卵でうずまった。1回で80から100個は生む。後ろからしかカメラを写さなかったので、カメの顔の表情はわからなかった。産卵のとき、涙を流すということを聞いたことがあったが本当にそうかどうか、確かめることなど、そのときはまったく思いつきもしなかった。

入念に砂をかぶせ、上から体重をかけて砂をならしていった。

タッパン、タッパン、

という、全身の力をこめて、砂を押す音が周囲の闇に溶け込み、やがてU‐ターンして、カメは泰然と海へと帰っていった。この全行程が約1時間であった。むちゅうで写真を撮り、うみがめの産卵を記録に収めることができた。あまり緊張してみていたので、少しぐったりしてしまった。しばらくそこにすわりこんでわずかな月明かりに黒光りしてうねっている波をみつめて高揚した気分をしずめようとした。 

その夜は、結構カメが到着したようだ。だが何万というカメの大群が到来するアリバダ現象にはならなかったそうだ。やはり、異常気象のせいなのだろうか。

われわれは、9時から観察に入り、1匹の海ガメの産卵の全行程を見ることができた。さらに多くのカメと出くわした。

先回のあの、カメを探してほっつき歩いたのはうそのよう。 

まあ、自然現象とはこんなものだ。

 

f:id:shuasai1207:20190810130205j:plain海がめの産卵

 

イスラ イグアナ ( イグアナ島)

 

カーニャからの帰り、ペダシの町から 「プラーヤ アレナル」 という海岸に出る。

ちょうど、なんとか記念日の連休だったので、たくさんの人でごったがえしていた。知り合った4人の若者と一緒にボートを頼み、約、30分のボートの旅でイグアナ島に到着した。

島には何にもないから、飲み物、食べ物、すべてを準備してボートに乗り込む。太平洋側にしては、珍しく、サンゴで覆われた白い砂浜を持つ島である。

1982年のすごいエルニーニョ現象によって、かなりのサンゴがだめになったそうだが、それでも海の色は、島に近づくにつれて美しいエメラルド色にかわっていく。

また、この辺は6月から11月ぐらいまでは、くじらも来る。出産もなされるようで、子供鯨に泳ぎ方を教えている光景も見られるそうだ。ダイビングしていると、鯨の鳴き声が聞こえてくるという。

「けさも、くじらをみただよ」

と、船頭さんが言った。カメが悠々とそばを通っていくのが見えた。

( このカメも、今晩カーニャにたまごをうみにいくのかな!

おーい かめさん。馬にけられないように。犬にかみつかれないように。騒がしい人間どもに驚かないようにね! )

 

イグアナ島の海岸の岩のくぼみなどに、ちいさな熱帯魚たちがいる。

スノーケリング、ダイビング、いやそんな道具がなくても、ただぷかぷかと海に浮かんでいるだけでも気持ちのよい海岸であった。

イスラ イグアナでの海水浴は気に入った。 ただし、サンブロックを忘れないように。

わたしは、夜の海がめ産卵にばかり気をとられていて、虫除けクリームはばっちり持ってきたが、日よけクリームをトンと忘れてしまった。

北緯8度のパナマの日差しは、甘くない。翌日から体中がやけど状態になり、直るのに苦労した。