ソベラニア国立公園(3)

 500年前にパナマ地峡を通過する二つの道が造られました。カミノデクルセスとカミノレアルです。 これらは太平洋側のパナマの町からソベラニア国立公園を通ってカリブ海側に出ます。一番困難を極めたのがポルトベーロ要塞に出るカミノレアルです。ジャングルを分け入り、山また山を越えていきます。今もその道が残っています。20世紀の終わりにその道を探検し、紀行文に残してみました。

 

カミノレアル探検記

 カミノレアルはスペイン語で‘王の道’という意味である。

この道は、約500年前に南米の太平洋側の諸国 たとえばペルーなどから運んできた財宝をパナマ市の港に下ろし,そこからロバに積んで大西洋側の港‘ノンブレデディオス’や‘ポルトベーロ’まで運ぶために造られた横断ルートである.そこから再び船積みされスペインに運び王さまに献上された。

この道は1746年,ポルトベーロが海賊によって破壊されるまで使われた.

1000m級の山を越えなければならない険しい道である。所々に石畳がしかれ、当時100頭ものロバに荷を引かせ、たくさんの奴隷を従えて財宝を運んだという跡が今でも偲ばれる。

今ではトレッキングコースとなっているが,ここを通る人はリュックを担いだ冒険家ぐらいで,それもほとんどいない.無人の森である。

その道を、私は、当時のロマンを描きながら挑戦してみることにした.

f:id:shuasai1207:20181219115854j:plain石畳の道

 同行してくれたのは、ガイド兼物知り学者のモラレス氏、彼はれっきとしたIPAT(パナマ環境省)の職員,パナマエコツーリズムの発展に携わった仕事をしている。以前はスミソニアン研究所で研究をしていたという。彼はジャングルに入るのは久しぶりのようで行く先々でよく立ち止まっては、たどたどしい英語で説明をしてくれる。そんなに専門的知識もない私としたら,有り難いやら、しかし,先を急ぐ旅としては時間がとられるので気が気でない。

ほかに、その時はわからなかったが、後でこの人に大変お世話になることとなる馬の御者のホセ、リベラ氏、この人が正直今回のこの旅のわたしの命を握っている人であったといっても過言ではない。

あとは、何のために一緒にきたのかわからないチャイニーズ系のデビット氏。底ぬけに陽気な人である。彼とモラレス氏の絶え間ないお喋りのおかげで、人っ子一人いない静寂なジャングルのなかで孤独感に襲われるのを免れることが出来た。

もし無口なホセリベラ氏と私だけだったら、恐怖と孤独の連続だったと思う。

なにしろジャガーとか、オセロとかが生息している、熱帯ジャングルである。毒蛇だっているだろう。さきになにがあるのか、予測がつかないのであるから。

 

まず、トレッキングの入り口のマデン湖に行き、そこから川をモーターカヌーで遡ることにする.そこから先は四輪駆動で行けるとこまで行き,後は馬と徒歩である。途中の山小屋で一泊する予定である。予定があってないような、よく考えると不安材料いっぱいであるが、自信たっぷりげな彼らを信じて、とにかく出発した。

マデン湖まではハイウェーが出来ているので快適だ。

湖の背後はチャグレス国立公園で深いジャングルで覆われている。この中に入っていくのである。

マデン湖というのはパナマ運河の水量補給のために作られた人造湖で、パナマ運河のためのガツン湖の水が少なくなると、マデンダムを調節してここの水をガツン湖に流している.

ペケニ川を塞き止めて出来たので細長い湖である。しばらくボートからバードウオッチングを楽しむ。ここは水鳥の生息地でもある.

アメリカレンカクがあちこちで対になって餌を捜している。赤い体に黒い首と黄色い口ばしでよく目立つが、体は小さい。この鳥はメスが卵を産むと放りだし、後はオスが面倒を見ることで有名である。所々に水面に木が飛び出ており、その枝の上に大きなナンベイヒメウやアメリカヤマセミ、オオミドリヤマセミが止まっている。岸辺には白いアマサギや大型のシロトキが動き回っている。岸辺近くの水草が繁茂しているあたりに、ピンクと白と黄色のややおお型なベニヘラサギが止まっていて動かない。こんな鮮やかな水鳥がいるのかと感動する。

対岸には漁師の家族がカヌーでシジミを網で取って、ドラム缶で煮ていた。殻をそこに捨てているので小高い殻の山が出来ている。レストランなどに売っているのだという。

川を少しさかのぼると、皮族が浅くてカヌーが登れなくなった。

陸地に下りてそこからは四輪駆動を使ってトレッキングの道へ向う。

まだ、余裕である。景色、鳥を観察する。

f:id:shuasai1207:20181219120651j:plainモラレス氏と私

 しばらくジャングルを入って行くと、途中小さな店があり、飲料水など必要なものを補給する。また馬が準備されていた。我々は四輪駆動車をそこにおいて馬で行くことにした。そこからは文字通りのジャングル、道なき道となる。

それも上がったり、下がったりで辿る跡は毎日降る相当量の雨のため泥でぬかるんでいる。それも歩けば足が埋まってしまって身動きできないほどである。私のぬかるみという意識の程度を越えている。それでも馬だと脚はぬかるむが慢心の力で次ぎの脚を出すので抜け出すことが出来、前へ進めるわけだ。それに脚が長いのでかなり深い泥地でも大丈夫だそうだ。

馬に乗ったのは私とデビット氏だけで、なぜかモラレス氏は御者のホセとともに歩きである。

この辺から熱帯ジャングルとはどんなものか思い知るようになる。

暑い。雨期だったので余計に湿気を帯びた空気がまとわりついてくる感じがした。

もう、わきの下も顔からも、体中の汗腺から汗が吹き出している。しかも極度にぬかるんだ道。我々一向は1歩,1歩、ありのように前進した。

500年前、同じ道をロバと馬で通っていった苦労が思われた。

途中,馬もズルッと滑ることがある.馬の背で私の体がグラッと前につんのめる。全身の力で馬の鞍に付いた支えを握った。狭い道の両側は崖になっており、岩だらけの下は川が流れている.落ちたら全身大打撲,悪ければ死ぬことだってありうる。もう自然を見る余裕など私にはない。ただもう1歩でも前進してくれる事を馬の背で祈るのみである。

私がなさけなく馬の背にしがみついているというのに、ホセは、馬の手綱をもって先頭を歩いている。歩けない道を歩いているのだ。それも裸足で。

さすがジャングル育ちは肝っ玉が据わっていると驚いた。

道なき道は川に沿って続き,深い木で覆われているが,所々に、木が切られた牧草地や荒地も出て来る。人間が住んでいる証しだが、人に出会うことはまずない。

片側は澄んだ水とジャングルと岩のコントラストの美しさがいつも目に飛び込んでくる。

延々と川に沿って3時間、ゆっくりゆっくり足を進める。いいかげんくつわを持つ手がしびれ、おしりが痛くてもぞもぞしてきた。この道を歩みきる探検家はよっぽどのもの好きでないとやれないだろうなどとぶつぶつ思った。

ようやくのことで山の頂上の近くに辿りつく。そこにブロックで造られた一軒の家があった。そこで一休憩する事となる。やれやれという感じ。

夫婦が出て来た。ヨーロッパ人でここに25年間も住んでいるという。

彼らがここを開拓してからしばらくしてこの当りが国立公園になった。

しかし、彼らは立ち退かなかった。そんな人達が少しだが点在して住み着いているという。私からしたらこんな所にたった一軒、夫婦だけで住んでいるとはよっぽどの変わり者としか思えないが、会った印象は人懐っこく善良な人であった。 自分たちで家を造り,前の庭は沢山の花を植え、後ろの広い庭は薬草が栽培されていた。

彼らはこの草は胃腸に良い、これは肝臓に良いなどと説明してくれた。噛むと口がしびれる麻酔の草もあった。

さとうきびやパパイヤのジュースを飲み放題ご馳走になる。彼らはこの地域を全て知り尽くしており探検家が来るとガイドもするという。 

さっそく話ずきなモラレス氏との会話に花が咲き、ちょっとの休憩が時間を食ってしまった。

そのへんも時間に几帳面な日本人の感覚には理解できない所である。

気が付くとすでにあたりは薄暗くなってしまっている。この調子でいけば、宿舎にたどり着くころは一寸先も見えない闇となるであろう。内心私は気が気でなかった。

かれらはそれを知ってか、知らずか、おかまいなさそうである。時間という観念さえここではその機能を停止してしまうようである。

散々飲んで、しゃべって時間を使い、いよいよ腰を上げ出発となった。

ますます暗くなっても、ホセはなにごともないかのように普通に歩いていく。馬も暗さには影響されない様子で普通に歩いていく。

川に沿って進んでいくと、ホセが突然、この川を渡らなければならないと言い出した。 

もう、全て真っ暗である。階中電灯と馬しか頼りになるものはない。モラレス氏は歩きなので馬がないと川を渡れない。私の馬の後ろに飛び乗る。

馬を川に入れる。以外と川は流れが速い。

川の中間で馬が急に深みに脚を踏み入れた。ドバッと水が私の腹まで来た。支え棒を持たない後ろの彼が オオッ と奇声を上げて私にしがみついてきた。当り一面闇である。情けないことに泳げない私は、馬からふり落ちないようにもう必死である。

ホセは何ごともないかのように手綱を取って前を進んでいる。

ようやく、上を見ると山小屋の中に明かりが見えた。ここが私達が目指す宿泊所だった。実はホセはこの山小屋のオーナーであり、着いてから料理し、私達に鶏肉の入ったスープ サンコーチョをご馳走してくれた。びしょぬれになった体を温めるのと、4時間以上も馬に乗った疲れを癒すには最高の効果があった。山小屋は自家発電で、ベットも清潔で快適であった。

翌朝も彼が食事を準備してくれた。 牛肉のスープだった。 山小屋の周りは牧場となっていて、牛が牛舎で餌を与えられている。山小屋の周囲の牧草地の背後は熱帯雨林地帯である。ここに立っていると不思議なことにいつまでもここに住みたくなってくる。 人間が自然に帰りたくなる気持ちが解る気がした。

食事後、よっぽど我々が気に入ってくれたのか、人が懐かしいのか、昨日の薬草園の夫婦がわざわざ会いに来た。

f:id:shuasai1207:20181219120219j:plainポルトベーロ要塞

カミノレアルを下ってポルトベーロまで横断するか、このへんの山の熱帯雨林地帯に入って行くか話し合う。 結局、ここにくるまでに予定したよりかなり時間を取られたらしく、太平洋‐大西洋横断はあきらめこととなった。

しかたなくこの近くの熱帯雨林地帯を探検することにした。それでもれっきとした国立公園の中である。

ここはパナマでも雨の多い地域なので、コケが木の幹に密生して、ツルが延び、何十メートルのシダが生い茂っている。 途中,体長40センチメートルほどのミミズトカゲが地面を這っていた。 所々に原生林の巨木が生えている。 木の上には赤頭フウキンチョウやオレンジキヌバネドリが止まっていた。

この山小屋のあるあたりはサンタリタを越えたボケロンという地域で、ここから見渡すともう一つの山が見える。 石畳の道を辿り、その山を越えると、ポルトベーロの港に辿り着く。 

カミノレアルの道はまだ続いている。

 

今度いつくるかわからないが、また再び来る時にはポルトベーロまで踏破することを誓って、山小屋を後に、高層ビルが林立する現代文明の都市パナマへ戻ることにした。 

もどりは大変な泥地をやめて、川の中に入って下ることにした。 水は少ないから大丈夫だと言う。馬はおそるおそる水の中を歩き出す。 モラレス氏も川の中を歩き出すが、少し深い所は服を着たまま泳いで後から、付いてくる。 暑いから、川は快適な気分で、またジャングルの中を川で下っていく景観は最高である。 そういう気分に浸っていると、突然、馬が ガバッ と深みにはまった。 今度は胸まで完全に浸かった。 馬は完全に水の中に入ったようである。

不思議なのはホセである。行きも帰りも私があれだけあえいでいるのにちゃんと馬の手綱を握って黙々と前を進んでいる。

着てるのはズボンだけ。しかも裸足。

自然の中に生活を営み、この辺の自然に関しては知らないものはない。落ち着いたものだ。全く自然と同化している感じだ。木や動物の名前を聞くとちゃんと答えてくれる。よけいなことは言わない。実直でビジネスとは無縁なような彼だが、観光客が来れば歓迎してサービスしたいという。人を乗せる馬は何十頭もあるそうだ。ここではこのような人が唯一の頼りとなる。

我々はゆっくりしたペースで一日掛かってパナマに着いた。

山小屋のオーナー、馬の御者ホセリベラ氏と別れる時、彼は日本人の観光客が来るまでに山小屋をきちんと設備しておくと言った。

しかし、はたして日本人観光客がここまでくるだろうか。でもそれを言っちゃ彼に可哀相と思いながら再開を約束した。実際彼には大変お世話になった。

このような旅は二度とないだろうと思いながら、カミノレアル半横断の旅は終わった。